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・・・・・・キンランー時任学園の野生植物・・・・・・・
神の存在
人間の最後の頼りは神ではありませんか? それでは、どのような神に頼ったらよいのでしょうか? この頁では、過去10年間卒業文集で、卒業生に贈った「神の存在」を毎月掲載いたします。時任学園の道徳教育の一環を知ることが出来ます。 |
神の存在ー1 神と悪魔
神の存在−2 奇跡
神の存在−3 水の存在
神の存在−4 神のご褒美
神の存在−5 物と心
神の存在−6 宇宙の管理
神の存在−7 悪魔
神の存在−8 死生観
神の存在−9 やまゆり
神の存在−10 デジタル
神の存在−11 厳しき師の教え
神の存在−12 無知の罪
神の存在−13 神との通信
神の存在−14 嘘と死
神の存在−15 聖書を読もう
神の存在−17 空間と物質
神の存在−18 新しい世界
神の存在−19 夢の世界
神の存在−20 死と永眠
神の存在−
神の存在−
神.....人知を越えてすぐれ、とうとく不思議な存在..........岩波国語辞典
日本の国には,八百万の神がいると言われています。 しかし,恐るべきは、天地創造の神、全知全能の神、愛の神なのです。
このような神が存在するのならば、私たちは、無条件でこの神に服従しなければなりません。なぜならば、この神は人間をも創造されたに違いないからです。
神が存在するのか、しないのか、確たる証拠がないので、神は存在するという人と、神は存在しないという人がいます。神の存在を信ずる人は、神そのものは見えなくとも、神の所業を確認し、信仰によって神を見ているのです。一方この世の有様から神も仏もいないと感じている人は、神の存在を否定することでしょう。
では,私たちは神の存在についてどのように対処したらよいのでしょうか-−神は存在するとしたほうがよいのです。 存在するかも知れぬものを存在しないと断定することは出来ません。 恐るべき神が存在するかもしれぬのに、神は存在しないと断定して行動するとすれば、それはむしろ非科学的な態度であり,信仰のあるなしにかかわらず、思慮深い行動とはいえないからです。
そこで、信仰の無い人のために、全能の神が存在すると仮定して先へ進むことにしましょう。
神が存在するとすれば、これを理解しなければなりません。自然や、人間や、社会をよく見て研究し、うわべだけでなく、奥深く、洞察する力も養わなければなりません。神を理解するのに一つの方法があります。それは、何か問題に行き当たったとき、自分がもし全能の神ならば、どのように処置するであろうかと考えることです。
ところがここに一つ問題が出てきます。神に対して悪魔というものが存在するのです。ある一つのことを処置するのに、よい処置の仕方と、悪い処置のしかたがあるのです。よい、わるいの判定がまた問題なのですが、神はよい処置を行い、悪魔は悪い処置を行なうとしましょう。 そうすると自分が全能の力を得たとき、その力を自分の利己的な方に行使するのは、神の処置ではないことに気付くはずです。
気まぐれとか、でたらめ、という種類のものは悪魔の所業に属するのです。 なぜならば、きまぐれやでたらめでは、この天と地は、成り立ち得ないことが明らかであり、一貫性こそ神の所業に属するからです。
「正直の頭に神宿る」と言われています。
真実は、神の所業に属し、嘘、つくりごとは、悪魔の所業に属するのです。 私たちの頭には、神と悪魔と自分と計三つの座があって、神の座に神がおれば、自分は神と共にあり、悪魔の座に悪魔がおれば、自分は悪魔と共にあるのです。
しかし、神と悪魔と自分の三者がいるときはどうなるのでしょう。 神も悪魔も、実は、意見を述べるだけなのです。 最終決定は、人間自身にあるのです-−全能の神は、人間をそのようにつくられたのです-−自分の行動は自分の責任なのです。
正直は、神の徳性の一つですから、悪魔は正直者を嫌い、正直者の頭から逃げ出して、嘘つきを探し出しそこに納まるのです。
最近、人間は神の創造物(心と体)ではなく,猿から進化したと言う主張が通用しています。しかしこれは皮相的な見方であって、本当のところは何も解らないのです。なぜならば、進化は自然に属し、自然は宇宙の意志に所属するからです。宇宙の意志を司るのが全能の神ならば、人間の創造は、神の所業に属するのです。
この世を科学の成果によって理解することは大切なことです。しかし、神の所業によって理解すると、より深く見えてくるのです。 現代科学の先端技術が、すでに何千万年前の昔に自然界で応用されているのです。 これは驚くべき自然の意志-−神の所業の一つに過ぎないのです。
神の存在を否定するのは自由です。
しかしもし神が存在するのであったらどうするのですか。 全能の神の目は貴方の総てを見ているかもしれないのです。 神を理解せずに生きていってはなりません。 神の存否は、人間一生の課題なのです。
卒業生の皆さん、卒業おめでとう。
道徳の最後の課題は、神の存在です。
卒業後も神について考え、神を恐れる人間になって ください。
平成七年三月五日 時任@吉
神の存在1 | 神の存在2 | 神の存在3 | 神の存在4 | 神の存在5 | 神の存在6 | 神の存在7 |
神の存在8 | 神の存在9 | 神の存在10 |
701 神と悪魔 |
702 奇跡 |
703 水の存在 |
704 神のご褒美 |
705 物と心 |
706 宇宙の管理 |
707 悪魔 |
708 死生観 |
709 やまゆり |
710 デジタル |
私達は、何か考えられないような素晴らしいことが起こると「奇跡が起こった」と言って騒ぎます。
しかし、よく考えて見ましょう。
私たちの身の回りには、奇跡が満ち溢れているのです。 実のところ、奇跡が当たり前のように起こっていることが正に奇跡なのです。
私達が生きているということ、これは奇跡以外のなにものでもありません。 空気、水、青空に輝く太陽、緑の草原等など! 正に奇跡なのです。
物がすべて下に向かって落ちるのを当たり前と思ってはいけません。 宇宙の空間では、物は空中に浮いたままなのです。 重力の存在は、正に奇跡なのです。
神は、人間に上と下があることを教えるために、物がすべて下に向かって落ちる世界をつくってここに人間を住まわせたのに違いありません。上と下が決まらないと、その他は何も決まらないのです。
卒業生の皆さん、貴女方は、多くの人々が当たり前と思っていることに、奇跡を感ずることが出来ますか。 皆さんは、中学校は、義務教育で、卒業するのは当たり前と軽く考えているのではありませんか。
皆さんが、中学校を卒業するために如何に多くの人々の縁の下の力持ちがあったか解りますか。 その多くの方々のお陰で中学校卒業が当たり前になって、卒業出来るようになったのです。
ですから当たり前のことを、当たり前にすることが如何に大切かが解るはずです。
当たり前に卒業出来ておめでとう。 昔は、中学校卒業は、大変なことであったのです。 中学校を卒業できたことについて、まずご両親に感謝しましょう。 先生方にも、その他多くの方々にも。
当たり前のことに奇跡を感じ、感謝することこそ、
人間最高の感性の現れなのです。 神が縁の下の力持ちである事に感謝しましょう。
感謝によって神の祝福がありますように。
平成八年三月十二日
卒業生の皆さんへ 時任靜吉
神の存在1 | 神の存在2 | 神の存在3 | 神の存在4 | 神の存在5 | 神の存在6 | 神の存在7 |
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701 神と悪魔 |
702 奇跡 |
703 水の存在 |
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705 物と心 |
706 宇宙の管理 |
707 悪魔 |
708 死生観 |
709 やまゆり |
710 デジタル |
日食や月食は、華やかな天体ショウの一つです。
この広大な宇宙空間の中で、月の四百倍(直径)の大きさの太陽が月の四百倍の彼方にあって、地表から見ると同じ大きさに見えるのですから、なんと不思議なことではありませんか。 このようなことを不思議と思う人間こそ価値のある人間と思うのです。
天体の運行は、非常に正確ですから、日食や月食が何時、何処で起こるかという事を予測出来るのです。 列車の到着時刻のように時々遅れるという事はありません。
この度も三月九日に予想どうり、月の影が地表に落ちて東アジアとアラスカで日食が起こりました。 シベリア東部では、細長い帯状の地域で皆既日食が見られたのです。
モンゴルで皆既日食が見られるというので、日本からも観測の人々が多数出掛けました。
日食のために真昼に暗黒の世界が訪れるとすれば、どんな鈍感な人でも、これを感じないという訳にはいきません。
ところで、このたびの日食では、暗黒の中で、へ−ル・ボップ彗星が肉眼でも見られるとあって、特に人気があったようです。 へ−ル・ボップ彗星は、世紀の大彗星と言われていますから、これからでもお目に掛かれると思います。 昨年現れた大彗星は、発見者の名をとって百武(ヒャクタケ)彗星と名付けられ、多くの写真が取られ、いろいろな研究が出来て話題を呼びましたが、その中で一つ大変興味の湧く話を聞きました。
彗星は、太陽系の外側の海王星や冥王星の更に外側に存在する、主として氷の塊から出来ている天体で、多数ある中から、太陽の引力などで軌道に乗り、太陽に近づき、また遠ざかって行く天体です。 太陽に近づくと太陽の表面から飛び出す放射で、氷の表面が蒸発し、水蒸気が噴出し、これが長い尾となって所謂「ほうき星」という名が付けられているのです。
興味ある話とは、この彗星物質の中に重水素が発見されたというのです。 重水素というのは、水素原子の核の中に中性子が入りこんで普通の水素より重い水素となったものです。 科学的には同じ水素ですが、これが酸素と結合すると重水となります。重水は、普通の水の中に混じっていてこれだけを集める事も出来ます。
地球は、水の惑星とも言われ、他の惑星と比べると、水が多く、これが海を形成して、地球の生物を育てるもとになったと言われています。
さて、この地球の水の中には、不思議な事に他の惑星と比べて重水が多く含まれているというのです。 なぜでしょう。
彗星の氷の中の重水の発見は、地球の水が彗星によって太陽系の外側から運ばれてきたのではないかという考えにつながります。いろいろな点から地球は特別な惑星といわれています。
さて、もし彗星が遠い太陽系の外側から地球を目指し、地球だけに大量の水を運んで来たのだったらどうでしょう。 夢は広がってゆきます。
遠い、遠い過去に、氷の塊である大彗星が次々と地球に衝突し、重水を含んだ水を大量に地球に供給した有様が目に見えてきます。 このような偶然があるでしょうか。
これは、地球に生物を育てようとする神の所業の一つかもしれないのです。 神は地球を特別な星として作り上げ、そこに人間を住まわせたのかもしれません。 有名なノアの洪水は、天上の大量の水の存在を示唆しているのかもしれません。
卒業生の小川さん、新倉さん、あなた方が時任学園を卒業したのを単なる偶然と思ってはいけません。 必然だったらどうするのですか。
大切な事に鈍感で、つまらぬ事に敏感なのがこの世の習いなのです。 そのような人にならぬ事を願っています。
神の所業を感じ取り、感謝と思いやりと反省のある人生を送ってほしいのです。
平成九年 三月 時任静吉
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707 悪魔 |
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709 やまゆり |
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何かお手伝いをたのまれたとき、すぐご褒美がほしいという人が居ます。 しかしこれには感心できません。 お手伝いは喜んでするもので、ご褒美はそのお手伝いの価値を低くしてしまうのです。
何事に付けても、報酬を目的にするとその価値を低くしてしまうのです。
お手当てがあるから仕事をするというのは、当たり前のようですけれども、お手当てが無くとも仕事をする人が居ます。
お手当てが無くても仕事をする人が居て、仕事が終わってから、その結果、謝礼としてお手当てをもらったとしましょう。 このような場合、結果は、お手当てをもらったから、同じなのですが、実は、内容をよく見てみると大きな違いがあるのです。
勤労には、他人のために役立っているという喜び、心地よい疲れ、食欲の増進、心と体の満足という、素晴らしい効用があるのです。 お手当てがその上にプラスされれば、お手当てそのものの価値も増すのです。ですからたいした仕事もせず、嫌々ながらの仕事では、お手当てをもらっても価値は更に低いものとなるのです。
美味しい栄養のある料理を出されたのに、その美味しい部分、栄養のある部分を残して、
あまり美味しくない部分を食べるようなものです。
なんでも他人にやってもらって、自分はのうのうと暮らしている人がいるとすれば、その人は真の満足や喜びを味わう事の出来ていない不幸な人だということが出来るのです。
「私にはスポ−ツがあるし、その他楽しい遊びが沢山ある」といっても、これらは勤労の喜びに比べれば、ずうっと程度の低いものであってこのような人は、やがて自分の人生の目的について反省し、空しい人生を後悔する事になるのです。
さてお手伝いをして、褒められたら、うれしいし、ご褒美を貰ったらもっと嬉しいでしょう。 しかし、何かよいと思われる事をしても誰もほめてくれなかったり、これはよい事と解っていても、誰も認めてくれる人がいない時、それではつまらないから止めてしまうのでしょうか。
誰も認めてくれなくとも、褒めてくれなくとも、良いと思われる事の出来る人には、実は、最高のご褒美が待っているのです。
もう少し解りやすくすると
貴女の背後には、目に見えない採点者が居て、あなたの行動を採点しているのです。この採点者は、貴女にどのようなご褒美を上げようかと採点しているのです。 勿論、よい点を取った人には、良いご褒美をあげるためです。
もし貴女が、誰の目にも、やっている事がでたらめで、いい加減な仕事をしているのであれば、0点です。 勿論、この場合貴女を褒めてくれたり、ご褒美をくれる人は居ないでしょう。・・・・・・もし居るとすれば、それは悪魔の使いかもしれません。
次に、貴女は、ご褒美が貰えるというのでお手伝いをして、褒められたとしましょう。
この場合には、せいぜい30点位しか貰えません。
また貴女が、ご褒美が貰えないかも知れないと解っているのに、お手伝いをして褒められ、結果としてご褒美を貰ったとしましょう。 お父さんも、お母さんも大変喜んで、貴女を良い子だと褒めてくれました。 でも五十点しか貰えません。
次は、お父さんも、お母さんも忙しくて、貴女の面倒も中々見てもらえません。 しかし、貴女は喜んでお母さんのお手伝いをし、キチンと仕事を片付けます。 しかし、お母さんからも、お父さんからも、お褒めの言葉はありません。 このような時、この厳しい採点者は、はじめて百点をつけるのです。
この採点者は、誰も褒めてくれる人がいなくとも、ご褒美をくれる人がいなくとも、喜んで仕事をする人によい点をくれるのです。
人の見ているところでよい事をして皆に褒められ、人の見ていないところで平気で悪い事をしている人には、この採点者は厳しくマイナス点を付けるのです。
実を言うと、隠れた善行があっても、マスコミなどが取り上げて、褒め称えると、この採点者は、減点するのです。
人間は愚かですから、このような恐ろしい採点者が居ることに気付いて、はじめて自分の襟を正すのです。
この採点者こそ、人間の真の幸福を望んでいる者、・・・・・これこそ神というべき存在なのです。
貴女の心の中に神の座があって、そこに神がいらっしゃれば、貴女はこの採点方法が理解できるのです。
自分の事は、自分が知っている、最近良心の呵責に耐えかねて、三十年前の殺人を自供した人の記事が新聞に載っていました。
自分の事は、自分が知っている、しかし自分のことを、自分以上に知っている恐ろしい採点者が、あなたの中に居るのです。
お父さん、お母さんはいつまでも頼りにはならないのです。 褒めてくれる人が居なくとも、よい仕事の出来る人間、正しく行動できる人間にならなくてはいけません。
その時褒めてくれるのは、人間ではなくて、神なのです。
神に褒められる人間になってください。
神は、存在した方がよいのです。
時任静吉
平成十年三月二十日
卒業生の皆さんへ
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神の存在−その(X)
鶏小屋に、鶏の餌を刻む出刃包丁があります。 この出刃包丁は、捨てられてあったものを拾ったもので、研いでみたらよく切れるので、柄を付けて、鶏用として使っているのです。
鶏の餌を作るのに、新しい高価な出刃包丁を買う気には、一寸なれませんが、拾ったものですから、抵抗無く、鶏用として納まってしまったのです。 今では、この出刃包丁が無いと困るので刃こぼれしないように大切に使っているのです。
もしこの出刃包丁が使い物にならなくなったら、新しい出刃包丁を買う気になるでしょう。
人間の心というのは、不思議なものです。 同じことをするのであっても、抵抗のある場合と、無い場合があるのです。 コンピュ−タ−とは違うのです。
さて、毎朝毎夕、鶏の餌作りに、この出刃包丁を使いながら時々考えるのです。 こんなよい出刃包丁をどうして捨てたのだろうと。 何か事情があったのかもしれませんが、この人は不精な人(柄を付けるのが面倒)か、物を大切にしない人で、多分感謝の念の薄い人ではないかと。
また、この包丁を作った人はどんな人だろうかと。 誰が使うか解らぬ包丁を、精魂込めて一生懸命作ったとすれば、大変立派な包丁作りの職人で、この人に感謝の気持ちが湧いてくるのです。 たかが出刃包丁と思ってはいけません。 使いやすい、よく切れるこの出刃包丁を作った人の人柄がしのばれるのです。 そして、この出刃包丁を作った人に会ってみたいと思うのです。 しかし会うすべはありません。
丁度、会いたいと思っても会えない、神のような、幻の人のことをいろいろ考えるのです。
人間の作った道具とか機械は、使っているうちに、製作者の心遺いがだんだん解って来て感謝の気持ちが湧いてくるのです。 そして愛用する事になるのです。 ですから愛用していた器械がこわれて、その部品が手に入らないために、使えなくなると悲しくなってしまいます。 二十年も愛用した機械の部品がまだあって、届けられ、その機械が再び使えるようになると本当によかったと嬉しくなるのです。 部品が保管してあった会社をなんと立派な会社だろうと、もう一度感謝の念を持つのです。
ドイツにはこのような会社が多いようです。 日本には?すくない?悲しいことです。
人間と人間が、道具や機械を通して、理解し合い、会ったことの無い人でも、心が通じ合い仲良く成れるということが解ります。
反対に、欠陥商品を買ってしまうと、これをつくった人達は、なんと駄目な人達かと腹が立ってくるのです。
使い捨てというのもよくありません。 人間の心を荒(すさ)ませる事になるのではないでしょうか。
さて、さて、大上段に振りかぶって、私達の住んでいるこの自然界について考えましょう。 自分が現に住んでいるこの世界に、何も感じないようではお話になりません。
この自然界には、住めば住む程、調べれば調べる程、理解すれば理解する程、その素晴らしさ、奥の深さに感嘆させられるのです。
この素晴らしい自然界に感謝すると共に、一体だれがこのような素晴らしい自然界を作り上げたのかと考えるのです。
自然界は、自然に出来たので、別にどうということはないというのならば、捨てられていた出刃包丁に何も感じない人と同じなのです。
最近は、生命科学の進歩によって、いろいろな生物の仕組みが解り、生き物を、人間が作り出せるような状況になってきました。 人間も生物ですから、DNAを組み立て直して、作り出されるようになるかもしれません。 ですから人間の体も作られた物と考えるのは、考えの赴くところごく自然な事なのです。
それでは、人間をつくったのは一体何者なのでしょうか?
生物は、無生物から進化し、人間も進化によって作り出されると考え、進化と、自然界の自然の働きによって出来上がると考えるのは、物に感ずる事の無い人の考えることです。
一輪車と二輪車と三輪車とが転がっている時に、1輪車が二輪車に進化し、二輪車が三輪車に進化したと考えたらおかしな事です。 自転車などが勝手に進化する訳は無いのです。
物には、その物の背後に、@それを発案し、Aそれを設計し、Bそれを製作し、Cそれを改良する、目に見えない、何者かが必ず居るのです。 丁度捨てられていた包丁には、必ずそれをつくった人が居るように。 この何者かが重要なのです・・・・・・このほうがずーと自然な考え方ではありませんか。
人間も、猿も、何者かによって作られたのです。 この自然界も同様なのです。
この何者か?が神(創造の神)なのです。
自然を、自然に出来たのだからと、早い者勝ちで勝手に自分の所有物のように扱ってはいけません。 自然を征服しようなどという感覚の人には、神は存在しないのです。
私達は、自然に調和するのでなければいけません。
自分の身の廻りを見て感謝の気持ちの湧かないような人には神は無縁なのです。
「恩を知らぬは禽獣(きんじゅう)に等(ひと)し」とはよく言ったものです。
恩を知らぬもの・・・・・感謝の気持のない者は、とりや、けだものと同じで、人間の資格に欠ける者なのです。
物を大切にする気持ち、感謝の気持ちこそ、目に見えない神の存在へとつながるのです。
神は、感謝の気持ちを持つものの頭(こうべ)に宿るのです。
平成十一年三月
時任静吉
卒業生の皆さんへ
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神の存在−その(Y)
天と地と、そしてこの全宇宙を創造した神が存在するとすれば、何処に、どのように存在しているのでしょうか。
神の特性の一つは、その一貫性にあり、神は悪魔のような、気まぐれな、そして無責任なことはされないのです。 また神は、善良な方ですから、ご自分が創造されたこの全宇宙を責任を持って末永く面倒見ようとされているに違いないのです。 末永く面倒見ようということは、この全宇宙を管理する方法を持っていらっしゃるに違いないということです。
では、神はどのような方法でこの宇宙を管理しているのでしょうか。 考えて見ましょう。 人間の知識によると、宇宙の大きさは、直径200億光年とか500億光年とか言われていますから、途方も無い大きさです。 光速ロケットで出掛けても宇宙の果てに到達するのに100億年以上もかかることになり、とてもとても人間の寿命では管理など思いも及ばぬことです。 尤も光速ロケットに乗れば,年をとらないかもしれませんから、宇宙の果てには何とかたどり着けるかもしれませんが、地球に帰ってきたら、地球は一体どうなっているのでしょうか。 浦島太郎どころの騒ぎではありません。地球は、膨張した太陽に飲み込まれ、蒸発して無くなっており、膨張して地球を飲み込んだ太陽はその後収縮して、小さく、小さく、更に小さくなっているでしょう。
そういう訳ですから、神が宇宙を管理しているとすれば、人類の知識では全く考えられない手段を持っていると思わなければなりません。
それでも少々無理をしてでも考えて見ると、空想科学小説では、宇宙旅行するときに、
ワ―プと言う方法を使っています。ワープというのは、遠方にある空間を自分のすぐ傍らに移動させてきて空間に窓を作って、その窓から遠方の空間に乗り移るという方法です。
この方法を使うと光速ロケットではとても出来ない宇宙旅行ができるのです。
さて、このワープと言う方法を、現人類の最先端の学問で検討を加えると、大変面白いことが解ります。 窓の大きさが小さければ小さいほど可能性が高いのです。 しかし残念なことに、人間がくぐれるような大きさの窓は難しいのです。 それでは窓の大きさは一体どれくらいかと言うと、針の先よりもまだまだ小さい私たちには想像も出来ないような小さな窓で、そのような小さな窓ならば何時でもワ-―プが可能なのです。
神が宇宙を管理する秘密がここにあるような気がします。 神は肉体を持たぬ霊であると言われています。 霊ならばどんな小さな穴でも潜り抜けられるのではありませんか。
霊は全宇宙に広がっており、神は、何時でも、何処にでも現れることが出来ると言うことになるのです。 丁度原子核の周りを回る電子が高速回転のため雲のように見えるので電子雲といわれ、電子は粒なのか雲なのか解らないのと同じように、神は宇宙を瞬時に駆け巡り(いつもワープ、ワープで)或るときは、霊として、雲のごとく宇宙全体を覆い、必要な場所では留まって、何時でもその力を神として発揮することが出来るのです。 しかし神は人間には見られたことが無いそうです。 神の代理としての天使は、神と同じく宇宙を駆け巡り、何時でも、何処にでも現れて、時には人間の様(さま)になって、その使命を果たしているようです。
人間の住む空間は、総ての物理現象が光速を超えられぬと言う制約を受けているので宇宙の管理は難しいのですが、このように考えると、霊ならばなんとなく宇宙全体でも管理できるのではないかと言う気がしてきます。
神は、現在の宇宙を瞬時に見ることが出来るのです。 ですから、100億光年のかなたの状況を、人間には100億年前のことしか見られないのに、神には100億年前から現在までを全部、走馬灯のように見られるのです。
神は霊であるからこそ宇宙の管理が出来ると言うことになります。
また、神の霊は、私たちの心のすぐ隣にも存在しているのです。すぐそばにいるのですから、神は、私たちのことは何でもご存知なのです。 私たちが生まれたときのことから、現在まで、必要ならば髪の毛が何本あるかまで、総てのことを走馬灯のようにして視ることが出来るのです。 神は、総てのことをご存知であると聖書にも書いてあります。
そして祈りも、何時でも神に届くのです。 感謝の祈りに神はすぐに応えられるのです。
神は、容量の非常に大きい大型コンピューターのように全世界の人々の祈りを、瞬時に、同時に、聞いてくださるのです。
神の存在について少しは解ったでしょうか。神の存在について理解しようと努める事は良いことです。 努力すれば、自分の知識や経験を総動員して努力すれば、神の存在を信ずることが出来るようになるでしょう。
この世では、何時災難が降りかかるか解らないのです。心の安らぎを得たい人は、神の存在を信じ、神に祈ることです。
何が起こるか解らない恐ろしいこの世に失望したら、神がすぐそばにいるということを思い出してください。 では
卒業生の皆さん卒業おめでとう
最上さんは大妻嵐山高等学校へ進学することになりましたが、石塚さん、織田さん、森本さん、山宮さんは日本イデア高等学校に進学することになりました。
進路は違っても神の存否は人間一生の問題です、何時も忘れないで下さい。
時任学園では、また道徳の勉強を真面目に続けましょう。
道徳と神の問題は、不可分なのです。
平成十二年三月十六日
時任静吉
卒業生の皆さんへ
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神の存在−その(Z)
悪魔は、神に敵対する悪霊です。
悪魔は、人間と人間の間の愛や信頼を否定し、総てを自己の欲望の満足に充てるべきであるという独自の、神に対抗する理論を作り上げ、人間を神から引き離して、自分が神に代わってこの世を支配しようとしているのです。
悪魔の戦略は、まず嘘をつくことから始まります。 「自分の利益になることならば、たとえ他人が、その為にどのように困ろうとも、嘘をついて通しなさい.嘘を嘘で固めて頑張りなさい。正直を貫き通して損をするなど馬鹿のすることである」
これが悪魔の第一の教えなのです。
ですから、正直の頭(コウベ)に神宿るならば
不正直の頭に悪魔宿る・・・・・・なのです
私達のこの世は、神の教えと、悪魔の誘いが共存する矛盾した世なのです。
この矛盾した世でどのように生きて行けばよいのかは大変難しい問題なのです。しかし如何に難しくとも、どちらにつくかは自分で決めなければならないのです。
今の世で、神宿る頭と 悪魔宿る頭は、どちらが多いのでしょうか。
悪魔宿る頭が圧倒的に多いのです。
先日、自分の生んだ子供を捨てたという事件がありました。
なぜ捨てたかというと、「子供が邪魔で自分のやりたいことが出来ないと言うのです」
このような親を褒める人はいないでしょう。・・・・・悪魔もこの親を褒めたりはしないのですー何故か分かりますか-−悪魔の評判が落ちるからです・・・・・・
しかしこの問題をよく検討してみると、この事件は私達のものの考え方の根底に横たわる重要な問題を含んでいるのです。
まず、その考え方は、自分以外は、総て他人であって、自分の生んだ赤ん坊であっても例外ではないというのです。
親と子の関係は、普通は、親の愛、つまり無償の愛によって結ばれているのです。これを否定して、子供が親の為になるかどうか、つまり親の利益になるかどうかによって判断し、親と子の関係の結論を出しているということです。
親が子供を育てるのは、将来親が子供に面倒見てもらうことを期待して育てるのではなく、結果はどうあろうと、親は子供を愛するがゆえに育てるのです。
ところが、親が将来子供に面倒を見てもらうことを期待して子供を育てるとすれば、どうでしょうか、これでは少し怪しくなってきます。これでは無償の愛とはいえないのです。
何故ならば、子供が親の役に立たないと分かったときに、親は子供を育てるのをやめるかもしれないからです。
無償の愛を持って親は子供を育て、結果として子供はその愛を感じて、無償の愛を持って老いた親の面倒を看、また自分の子を無償の愛を持って育てるのです。
このような親と子の関係にこそ神の祝福が在り、悪魔のつけ入る隙がないのです。
親が将来子供に面倒を見てもらうことを期待して子供を育て、子供が成人してから、結果として老いた親の面倒を看たとすれば、結果は同じように見えても、その内容は全然違うと言わなければなりません。 ここが非常に重要な点なのです。
「無償の愛など何の得にもならない、つまらぬ教えではありませんか。一人の子供を成人させるまでに,一体どれくらいのお金が掛かると思っているのですか、20年間独身でおれば3000万円くらい貯金が出来るじゃないですか。子供を育てるなんてなんて馬鹿らしい」
となれば、これはもう完全に悪魔の理論に嵌まっているということになります。
悪魔は色々な手を使って、悪魔の理論を人々に広め、実行させており、さらに神の教えを実行している人達にまで手を伸ばし、総ての人に、それぞれの状況に応じて,罠を仕掛け,罠に落とし、神など居ない、と思わせようとしているのです。
悪魔は力のある、諸々の悪霊の総大将で、頭が抜群に良い、策略の天才なのですから、用心深くないと罠に掛かるのです。
皆さんも、社会で独り立ちするようになったら、用心の上にも用心を重ねて、悪魔の罠に掛からないよう、注意深く生きて行かねばなりません。
先日、video-鑑賞の時間に、大草原の小さな家の「夢見る町」を見たでしょう。
チャールズ・インガルスとその妻キャロラインは、神を信じ、3人の子供をしっかり教育し、助け合って生きてきた、判断の正しい頼もしい夫婦でした。それが悪魔の罠にはまってしまったのです。全財産を失い、路頭に迷うことになりそうだったのです。
原因はおじの遺産相続。莫大な遺産がインガルス家に転がり込むとあって、町中の人がおかしくなったのです。親友のガーベイは、チャールズを敬遠して遠ざかり、オルソン婦人は、何時ものごとく悪魔の手先として走り回り、チャールズと、そしてキャロラインまでも陥れたのです。
この事件で忘れてならないのは、このインガルス一家の危機を救ったのは、真の友人達であったということです。
お金には魔力が潜んでいるのです。たとえ本人がしっかりしていても、周りの人々が問題を起こすのです。覚えておいて下さい。大金が入ったときに近づいてくる人は危険な好ましからざる人達なのです。真の友人は反って遠ざかって行くのです。
悪魔は、人間を、罠に陥れて自暴自棄にさせ、「神など居ない」と叫ばせ、神を呪い、神から離れてゆくようにしているのです。
悪魔の罠は、金、物、名誉、色、その他の諸々の欲、そして時には高級な理論、人間の弱点を巧みに利用して仕掛けられ、ありとあらゆる手を使うので、余程しっかりしていないと罠に嵌ってしまうのです。天使に化けて近寄って来ることもあるので決して油断は出来ないのです。キリストでさえ悪魔に試されたのです。
悪魔はキリストに「私の言うことを聞いたら、この世を総て貴方に上げましょう」と言って罠に嵌めようとしたのです。 キリストは、即座に罠を見破ったのです。
さて、先日音楽室の黒板にお金に関する落書きを見つけました。書いたのは今年の卒業生の一人のようです。その中に曰く「かね、かね、かね、お金が欲しい、お金があれば何でも手に入る、お金があれば幸せは後からついて来る」と・・・・・
お金は、この世では、生きて行くために必要なものです。大切に使うべきです。
しかしお金が余分にあると人間碌なことを考えないのです。そして悪魔の罠に嵌るのです。
お金があれば何でも出来ると思うのは間違いです。お金で買えないものもあるし、お金があるために反って不幸になる場合も多いのです。思いがけない大金が入ったときこそ落ち着いて悪魔の罠に嵌らぬよう十分に気を付けるべきです。
余分なお金は、時任学園に寄付することです。これが悪魔の罠に嵌らぬ無難な方法でしょう。(これは冗談です)
恐ろしいこの世ですが,未来は悪魔の支配する暗黒の世ではないのです。
やがて神は悪魔を追放し、明るい、新しい世が始まるのです。
その時、人々は愛と、真実と、信頼関係に目覚めるのです。
今の世であっても、人々が絶対嘘をつかなくなったら、まず泥棒が居なくなるでしょう。
そうすると、お巡りさんが要らなくなり、警察、裁判所、検事、判事がみんな要らなくなるのです。政府の役人や国会議員もそして膨大な組織が次々と縮小されてゆくでしょう。
国と国との信頼関係も改善されて、戦争もなくなり、軍隊も必要なくなるでしょう。従って私たちの税金は、殆ど人類の福祉に廻すことが出来るようになるのです。私達の嘘をつく習慣がどんなに多くの損失を招いているか理解しなければいけないのです。
ではこの辺で、さようなら、卒業後も時々学校に顔を見せに来てください。
学校から離れても、人間如何に生きるべきかと言うことを常に忘れないように。
平成十三年三月十七日
時任靜吉
卒業生の皆さんへ
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神の存在−その([)
人間何時死ぬのか、誰にも解らないのです。
病気の人は、病気が原因で、健康な人であっても、交通事故が原因で。
それ故に、死は不幸なことで、生は幸せなことであるとすれば、人間の幸せは、その人の心の持ち様で決まるのです。
何時死ぬのか分からぬのであれば、明日おも知れぬ命なのです。
死ぬのが当たり前で、生きていることが奇跡と分かれば、一日一日が新しく、朝目を覚まして、もし生きていて、元気であれば、こんな幸せなことはない筈なのです。 それなのに殆ど多くの人は、平均寿命80余才の時代に、何で私はその前に死ぬのか、私は不幸だと考えてしまうのです。
日々生きていることに感謝できる人こそ幸せな人なのです。このような人は何時死んでもそれまでの人生を感謝して死んで行ける人なのです。
人間に生きる権利などないのです。もし有るとすればそれは人間対人間社会についてのことであって話は全く別なことになります。
天地創造の神に対して、生きる権利を主張できる人などいる訳はないのです。
神を信じない人なら何と言うのでしょうか。
私達の身の回りの物は総て神からの借り物であって、命さえも生かさせてもらっている
というところの借り物なのです。
いつも道徳の時間に生と死の話をしている時任先生が、実は,医師に死を予告されて、
愚かにも愕然とし、『しまった』と狼狽えたのです。 まだ死ぬとは思っていなかったのです。 色々な思いが頭を過ぎります。『死ぬのは怖くない、しかし色々なものを抱えすぎている。時任学園はどうなるのか、生徒、先生方、その他色々』
「一体何日生きられるのか、二ヶ月か、三ヶ月か、半年か」と言う質問に、『それは分からない、原因不明の病気、とにかく心臓が非常に弱っている。重症であり、危険であり、何時何が起こるか分からない。この病気は一時的に良くなることはあっても段々悪くなる。
これ以上悪くならないよう治療するしかない。βブロックという薬がある。しかしこの薬は副作用が心配なので入院してテストしてみないと使えない。テストのため一ヶ月の入院が必要です。最後の手は心臓移植しかない』と医師は答えたのです。
このような状況の下で時任先生は天地創造の神に祈ったのです。
『主治医は原因不明と言っていますが、他の専門医はーこの前亡くなった小渕首相と症状が似ている−と言っていますので私にも心当たりがあります。原因は過労とストレス、
それと食べ物にも問題があったと思います。私の不注意からこのような病気になったことを深く反省しています。どうか私の命を今しばらく延ばしてください。しかしそれも叶わぬことならばどうか御心のままになさってください。今迄生きながらえてくることが出来ましたことに深く感謝しております』と。
お祈りをして落ち着いたところで現状をよく分析し、対策を立ててみました。
よく考えて見ますと主治医の診断には色々と納得のいかないことがあるということが解ってきました。まず患者の自覚症状を重視していないのではないかということ、次に検査のデーターの扱い方が偏っているのではないかということ、また経験不足で総合的な判断に欠け、自分の判断に従わぬ患者を説得するだけの力量が無いのではないか等です。それでこの主治医の患者になるのは危険だと思ったのです。
身体に負担をかける行動は、この際危険であるということを重々承知の上で体調に注意しつつ、自分の勉強を兼ねて他の医者の意見を聞いて歩いたのです。
結局、その他五人の医者に、見解を聞き、診察を受けて、色々なことが分かってきたのです。これらの医者の見解をまとめ、自分の考えを加えて、医師の診断はどのように在ろうと、自分の身体は自分が一番良く知っている。この病気は必ず良くなると確信を持つことが出来たのです。
まだ最終的な結論は出ていませんが、6ヵ月後の検査の結果は、かなり良いもので自分の判断が正しいと思えるものになっていたのです。
この度の時任先生の病気の話を全部書き出したら本が一冊出来上がってしまうでしょう。
卒業生の皆さんこの記事から何かを読み取ってください。
今年の卒業生は、時任先生にとっても思い出深い卒業生となるでしょう。
五十嵐さんが文集へのメッセージをお願いしますと言ってきたのに「うーん間に合わない」と言ってしまったのです。五十嵐さんは悲しそうな顔をして「原稿が出来たら打ってあげますよ」と言ってくれたのです。これはいかん何としてでも間に合わせなくてはと原稿なしで打ったのです、
卒業生の皆さん卒業おめでとう。これからも時々学校へ顔見せに来てください。
平成十四年三月六日
時任靜吉
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神の存在−その(\)
「世界に誇るべき日本の野生やまゆり」
やまゆりは、百合の王者と言われていますが、野生なのです。
近頃の草花は、大輪、豪華で美しい花の殆どが人間の手の加わった所謂人口の交配種なのです。
百合の場合、やまゆりは、野生でありながらその花の数、美しさ、大きさ、豪華さ、そして香りの強さ、何れをとっても改良した百合を凌ぎ、王者の風格十分なのです。
私も時任学園建設に当たってこのやまゆりと出会い、その素晴らしさに感嘆した者の1人です。6号棟を建設して後、初夏に、藪の中、通路の両側に次々とやまゆりの花が顔を出したのです。 恰も時任学園の出現を祝福し歓迎するが如く。
その時、校地の造成を業者に任せないでよかったとつくづく思いました。 もし校地の造成を自分でやらなかったら、やまゆりには気付かなかったかもしれないのです。
また、土地の造成を業者に任せていたらどうなっていたでしょうか。林地開発の業者のやり方というのは、立ち木を伐採した後、先ず大きな穴を掘って、地下深いところから草や木の根の含まれない赤土を掘り出し、この穴に地表の黒い土(表土)を掻き取って全部入れてしまうのです。その上に地下から掘り出した赤土を敷いて、「はい造成完了」ということになるのです。見た目にはきれいな造成地が出来上がっていますが、さて恐ろしいことが行われていることに気がつくでしょう。何十年、何百年もかかって生成された表土が失われてしまったのです。そしてこの表土の中には百合の球根のみならず、その他のあらゆる植物、動物までも含まれているのです。 斯くしてやまゆりは、地表の木の根と共に全滅していたことでしょう。 赤い土の造成地は、悲しいことに人間の罪深さの一端の象徴なのです。しかし、時任学園には黒い表土が残っていることに注目してください。
時任学園設置後、近頃のこと、やまゆりの花がぐっと減ってきたようで大変残念です
地元にはやまゆりの球根を掘り採って食用にしている人も居り、車で遊びに来る人の中にはこれ幸いと切り取って持ち帰る人も居るのです。
やまゆりは印旛村の村花だそうです。先年、村議会で「やまゆりを増やそう。やまゆりの球根を無料で村民に配ったらどうか」言う提案があったと言うことです。 しかしこの案は立ち消えになったそうです。 村長が「栽培が難しいから駄目だ」と言ったそうです。
それに配られた球根を大きく育てて食べてしまう人が居るかもしれません。 やまゆりを増やすのは大変難しいのです。
時任学園の敷地でやまゆりが咲いているところを思い出してください。 殆どが藪の中でしょう。 開墾した畑に球根を植えても2−3年しかもたないのです。
厨房の外にあるやまゆりと管理棟の東側にあるやまゆりは例外のようなものです。あのやまゆりは植えたものではないのです。
私にはこの場所に球根を植えた記憶はありません。 表土に残っていた球根がいつの間にか育って花を咲かせるまでになったものと思います。花が咲き出してからもう6年になりますが、年々花の数を増やして素晴らしいやまゆりになっています。 願わくはこの株の消えることのないように ! ただ残念ながらやまゆりの株はなかなか増えないのです。
食堂に飾ってある写真のやまゆりは、洗濯場の入口で花を沢山付けていたものです。
子供を増やそうと思って球根を掘り上げてみたら、なんと土の中から小さな可愛らしい球根がいっぱい出てきたのです。 これはしめた ! 増やせると思って畑に大切に植えたのですが、花をつけたのはたったの一本だけ、それも次の年には消えてしまったのです。
親株はその場に丁寧に植えたのに2株に分裂した後、花を1つつけ、悲しいかな翌年消えたのです。
やまゆりは、人のめったに入らない山野の中で花を咲かせ、子供を育てるのです。藪の
小徑で可愛らしく花を咲かせたやまゆりの子供たちは,心ない人々の手慰めに遭って、
苦労して咲かせた花は1輪のうちに大切な葉と共に切り取られ、更に運の悪いときには球根まで掘り取られ食べられてしまうのです。
それで、やまゆりは人間に見つからないところで静かに花を咲かせ繁殖するのです。
人の見ていないところで素晴らしい花を咲かせるのが、やまゆりの素晴らしいところなのです。やまゆりを理解する人が増えないとやまゆりは絶滅するかもしれません。
やまゆりよ あなたは その素晴らしい装いを 誰に見てもらいたいのか
それは この私を 創造された方
人間が この私を 見てくれなくとも
創造主の命に従い 毎年 花を咲かせるのです それが私の務めであり 幸せ
わたくしは やまゆりの花の背後に 創造主を視るのです
昔々今から約三千年も前のこと、イスラエルの国にソロモンという英知に溢れた王が君臨し、神の祝福を得て、国は繁栄を極め、周辺の国々の王は、ソロモン王の知恵を聞きに貢物を持って挨拶にやってきたと言われています。
また、新約聖書マタイ伝第六章二十八節、二十九節には次のように記されています。
[マタイはキリストの直弟子の一人であり新約聖書の執筆者の一人でもあります。野の百合についてのキリストの教えは有名です。]
28 また、衣服のことで、なぜ思い煩っているのですか。野のゆりから、それがどのように育っているか、教訓をえなさい。労したり、紡いだりはしません。
29 しかしあなた方に言いますが、栄光を極めたソロモンでさえ、これらの一つほどにも装ってはいませんでした。
英文では・・・ここで一寸英文和訳の勉強をしましょう
28 Also, on the matter of clothing, why are you anxious? Take a lesson from the lilies
of the field, how they are growing ; they do not toil, nor do they spin;
29 but I say to you that not even Solomon in all his glory was arrayed as one of these.
独文では・・・ここで一寸独文和訳の勉強をしましょう
28 Auch hinsichtlich der Kleidung, weshalb macht ihr euch Sorgen? Lernt eine Lection
Von den Lilien des Feldes, wie sie wachsen; sie muhen sich nicht ab, noch spinnen sie;
29 doch sage ich euch, datz nicht einmal Salomo in all seiner Herrlichkeit wie eine von
diesen bekleidet war.
このように野生の百合は、神の祝福を受けた
人生の手本とすべき植物なのです。
「ソロモンの栄華も野の一輪の百合にしかず」
卒業生の皆さん卒業おめでとう。
時任学園が神の祝福を受けたやまゆりに囲まれていることを誇りにしましょう。
そうすると時任学園は。神の祝福に包まれているかもしれないのです。尤も神は宇宙全体を包み込んでいるのですから同じことになりますが、濃度が高いと考えたらどうでしょうか。そうすると時任学園の周りには普通の場所よりも神の目が多いということになります。
生徒も先生も、みんなしっかりしなければいけないのです。
皆さんは6年間も時任学園のやまゆりに親しんできた卒業生ではありませんか
やまゆりの装いの美しさとその生き様の素晴らしさを理解し、これからの人生の指針の一つにして欲しいのです。
では さようなら
平成十五年三月五日
時任靜吉
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神の存在−その(])
近頃「でじたる」という言葉がはやってきました。
この世の情勢にうとい人は今迄この言葉を、意味も分らずに聞き流してきたのですが,
いよいよこの言葉の意味を知らないと恥をかく時代になってきたようです。
「パソコンなどは二流の人物に任せておけばよい。一流の人物は本を読む」とか言ってパソコンを敬遠してきた時任先生もついにパソコンに手を出さざるを得なくなったのです。
それで一昨年の夏休みにパソコンを一台買ってきて使い方の研究を始めたのです。
時任先生の弁解の弁は次の通り
「公害を撒き散らす車は使わない方がよい。 しかし車が無いと不便で生活できない。
車は必要に迫られて止むおえず使うのです。パソコンも同じで必要に迫られて使うことになったのです。最近は教科書の無償配布、財務報告、その他の連絡などインターネットを使うものがどんどん増えて、これらをいちいちパソコンのできる先生に頼んでいたのではやり切れません。それに決定的なことは、高等学校で情報科という教科が出来てこれが必修教科となったことです。しかも情報の免許を持っていた先生が退職されることになってしまったのです。」
パソコンを使う人が、でじたる、デジタル、digitalを知らずにいることはできません。
皆さんごぞんじの通りデジタルに対応する言葉がアナログ、analogです。
デジタルとは、「粒々で連続していないもの」。アナログとは「連続しいているもの」と言う意味です。 分らなくなったら時計を思い出してください。針の位置で時刻を読み取るのがアナログ時計で、数字が出てきて時刻を示すのがデジタル時計です。
数学で言うと1,2,3,4、・・・・・の自然数はデジタルで、計算尺はアナログということになります。
前置きが長くなりましたが今回の主題はデジタルとアナログです。
人間にとってデジタルは扱いやすく、わかりやすい量なのです。なぜかと言うと,
例えば、リンゴが七個あって7人で食べるとすると一人1個で、リンゴ1個の大きさは少しずつ違っていてもあまり文句は出ません。大きさが明らかに違っているときは別として、このリンゴは少し大きいから、少し削って、小さい隣のリンゴにくっつけてやろうということはしません。 それがチーズであって1本のチーズを七人で分けるとなると簡単には行かないのです。物差しで測るときに目盛りはどこにうちますか。1/7は少数にするのが難しいでしょう。 皆さんは平行線の定理を使って七等分することが出来ることを知っていますから、技術的な問題は別として正確にやろうと思えば出来るのです。 ところが平方根、立方根、 等は目盛りさえ打てないのです。切断しようと思っても、目盛りを打とうと思っても打てないので正確に切断できないのです。 このような切断を、切った場所が正確に解らないので、無端切断と言います。 つまりこれが本当の意味でのアナログで何処まで細かく調べても切れ目の無い連続体なのです。
もう一つ例を挙げてみましょう。
水の中に大豆を入れたとしましょう。そうすると大豆と大豆はデジタルな存在であることは誰の目にも明らかでしょう。そして水はアナログな存在なのです。
科学の無い時代には、お話はこれでめでたく終了です。 しかし科学の進歩は、水が本当の意味でのアナログではないことを突き止めたのです。 水を細かく分けていけば最後は、もうこれ以上は細かく分けられない、これ以上細かくすると水ではなくなってしまうと言う限界に達します。 これが水の分子でその大きさまで解ってしまったのです。そして水の分子が2個の水素原子と1個の酸素原子から構成されていることも解って、水がデジタルであることが解明されたのです。
「それでは、粒々の水の分子の間に何があるのかな?」と考えた人は居ませんか。 若し居たとすれば素晴らしいことです。このように考えることが学問の進歩につながるのです。
粒々の水の分子の間には可成りの隙間があって、この隙間には色々な物質が入りこんで行くことが出来るのです。
所謂塩が入り込むと食塩水になったり、金、銀、銅、鉛。亜鉛 等の金属やその他の非金属 等また化合物 等殆どの物質が入り込むのです。 海水中に含まれる金の総量は莫大なのです。若し金に限らず海水中に含まれる物質を手軽に取り出すことができたら、人類は皆仲良く暮らしていけるでしょう。 そのように考えると海水は貴重なものを蓄えることのできる巨大な倉庫と考えることができるのです。この巨大な倉庫が抱える空間とは一体何なのでしょうか。 物質が無いのですから真空と呼ぶことにしましょう。
真空とはなんでしょうか ?
さて、お話を先へ進めましょう。 水を分解すると水素と酸素の原子が現れるのです。これこそ粒々のデジタルの親分です。 そしてこの原子と原子の間に何があるのでしょうか。 何も無いのですから真空でしょう。 そしてこの一つ一つの原子がどのようなものなのか科学者がこれを教えてくれました。 原子には原子核と言うのが中心にあって、その周りを電子が回転していると言うのです。 丁度それは太陽の周りを地球が回転しているように !・・・考えてもみてください。 大きな、大きな,広い、広い隙間だらけではありませんか。 斯くのごとくして、宇宙はマクロ(大きいこと)の世界から、ミクロ(小さいこと)の世界まで、隙間だらけの粒々の世界なのです。
ところが、科学の歴史を紐解くと解ることですが、科学者はこの隙間に何かが充満しているのではないかと考え始めたのです。 何故そのように考えたかと言うと、光は波動であるのに真空中を伝わるのは理屈に合わない。何か光を伝える物質が真空と考えられているところに存在するのではないか。この物質にエーテルと名付けて研究することになったのです。(化学物質のエーテルではありません)
皆さんは、音が空気を媒体として伝わる波動であることを知っています。この現象を光に当てはめて理解しようとしたのです。
さて、波動はアナログのチャンピオンです。波は連続していて粒々ではないと思われるからです。 そしてもう一つアナログの大親分は時間と空間なのです。
科学者がエーテルと光の関係を研究している間に色々なことが解ってきました。光が粒の性質も備えていることが解って来たのです。つまり光は、エネルギーを運ぶ一つの現象であり、波動に見えたり、粒子に見えたりするのです。 皆さんはトカゲが自分の命に係る緊急事態のときはしっぽを捨てて逃げていくことを知っているでしょう。逃げたトカゲは生き延びて、元のトカゲになりますが、しっぽは死んでしまって消えるのです。光が波動の時、この波動に鋏を入れて切断しようとすると光は即座に反発してサイクルの切れ目で切れてエネルギーの粒になってしまうのです。学者はこれを光量子と呼んでいますから、光はデジタルなのです。 勿論光を波動として捉えても良いのです。
この世の現象を固定観念で捉えてはいけません。
斯くしてアナログのチャンピオン光は、デジタルの軍門に降ることになったのです。
原子より小さい陽子、中性子、中間子、電子等は光と同じように粒子と波動の両方の性質を合わせ持っているのです。
さて、最後の、時間と空間はどうなっているのでしょう。時間と空間は絶対的な存在と考えられてきましたが、何れも,延びたり,縮んだりするものと考えられるようになってきました。 有名なアインシュタインの相対性原理によると運動する物体の時間は遅くなったり、重力の働く空間は歪んだものとなるというのです。その最も激しい例はブラックホールと言われるもので、巨大な質量の存在によって、巨大な重力が発生し、近くにある総ての物体(光でさえもこれを)を飲み込んでしまうと言う存在が知られるようになったのです。
二十世紀になって時間と空間の絶対性が失なわれてきたのですが、それでは時間と空間はアナログなのでしょうかデジタルなのでしょうか。 これは大変興味のある問題です。
昔の人は、アナログの世界を神の領域として尊重してきたのです。 それを科学はデジタルとして人間の領域に持ち込んできたのです。 神の領域が段々と狭められてきたとは思いませんか。 時間と空間の問題は、神の領域の最後の砦と思われるふしがあるからです。
このようなことを考えて楽しんでいたら、最近の科学雑誌に時間と空間はデジタルであることがわかって来たという記事を見つけてビックリしたのです。いよいよ人類は神の最後の砦にたどり着くことが出来たかと。たぶん宇宙のデシタル化解析はこれで終わりとなるでしょう。 これで神の領域と人間の領域が定まり、神がどのようにして宇宙を管理しているかが解って来る筈なのです。神の立場に立って物事を考えると宇宙の仕組みも良く見えてくるから楽しいではありませんか。
時間が、若しデジタルならば、この宇宙はテレビの画面のようなものではありませんか。
テレビの画面は人間の目には連続した絵として映りますが、次々と消えたり,点いたりしているのです。テレビの画面に手をかざして動かしてみるとそれが良くわかります。
時間と時間の間に測り知ることの出来ない何かが在るのです。あるいはそこに無限の時間があるかもしれないのです。 極端な話が、このデジタル時刻とデジタル時刻の間に神は地球の出来事を総て書き留めたり、あるいは宇宙を作り変えたりすることも出来るかもしれないのです。 天地創造の神に不可能はないのです。神を怖れ、恐れ、畏れましょう。
またこの神が愛の神であることも忘れないようにしましょう。 神は愛を持って宇宙を創り、愛を持って管理しているのです。
聖書には、恐ろしいことが沢山記してあります。
神は、貴女の頭髪の毛が何本あるかもごぞんじ。
紅海の海底に道を作ったこともある。
太陽の動きを止めたこともある
など、など
これらをこの世界の常識に反することとして片ずける自信はありますか。
私達には科学がどんなに進歩しても神が必要なのです。
寧ろ科学が進歩すればするほど神が必要になると言うべきでしょう。
卒業生の皆さん卒業おめでとう。
卒業式は延期になりましたが、皆さんの最後までの頑張りによって三名一緒に卒業出来る事になったことは喜ばしいことです。卒業後もこの頑張りを忘れないように、やるべきことは必ずやり遂げるようにしてください。
◎ 為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり。
時任靜吉
平成十六年三月二十日
川上村金峰山の登山ー5月25日
神の存在−その(]T)
凍てつく大地寒気身にしむとも
厳しき師の教え、感謝の心持ちて
深く胸に刻まん、深く胸に刻まん
これは、時任学園の校歌の(二)ですね。
皆さんは、時任学園に何故に入学したのでしょうか。それは心身を鍛える為ではありませんか。朝の点呼の厳しさを噛みしめて頑張らなければいけないのです。
さて、この校歌(二)の厳しき師とは何でしょうか。文字の意味からすると「厳しい先生」ということになりますが、意味することは、もっともっと広いのです。
厳しき師とは、父母、兄弟、友人、先人、自然、地球、宇宙、 自分の周囲のありとあらゆるものを指しているのです。 ですから最頂点に立つのが神なのであり。 厳しき神の教えが最も重要なのです。
厳しき師の教えを身に付けるためには苦しい鍛錬が必要です。若い時代に心と身を鍛えてこそ神の教えを理解することが出来、素晴らしい人生が約束されるのです。
野を流れての末遂に、海となるべき山水も
しばし木の葉の下潜るなり、見よ忍ぶなり山水も
金剛石も磨かずば、玉の光は添わざらん
人も学びて後にこそ、誠の徳は現わるれ
時計の針の絶え間なく、巡るがごとく時の間の
日陰惜しみて励みなば、如何なる業かならざらん
身に降りかかる憂き事の、尚この上に積れかし
限りある身の力試さん、いざ試みん身の力
この詩の意味が解るでしょうか。 時任学園の「確かな人生とは」、確かな徳を身に付けるための、努力、忍耐によって得られるのです。
さて、平成16年度は災害の多い年でした。
この事から私たちは何を学んだのでしょうか。
時任学園の掲げる高い知性とは何でしょうか。それは自分の周囲の環境を正しく理解することです。 地震や津波を呪ってはいけません。この地球に住む私達には、
環境に対する十分な注意と理解?つまり十分な知識、知恵?が不可欠なのです。
神は、私達に自然災害に対応できる素晴らしい能力を与えているとは思いませんか。
ですから、私たちは、災害が起きたときに、今私達は何を為すべきかについて、自然がこれを教えているのだと、理解すべきです。神から与えられた能力を,知力を、先ず総力を挙げて、地球理解のために注ぎ、対応策を考え、実施すべきなのです。その他のことは二の次の問題なのです。
嗚呼 ! それなのに、世界情勢は、紛争だらけで、利己的な力を誇示する国が横車を押し続け、テロ横行 ! 一般庶民は娯楽第一優先で、何か起こると行政を非難するだけです。 一方には最低の生活、飢餓に苦しむ多数の人々がおることを忘れ。口先だけで、真面目に考えようとしていないはありませんか。
豊かな人々は、豊かな生活に溺れて、自然の兆しに鈍感になり、何か自分にとって不都合なことが起こると、他の者を、非難するだけで、自分の為すべき事をしようとしないのです。災害は起こるべくして起こっていると理解すべきです。このような人々を神は救おうとはしないでしょう。
そして、遂に、神は、地球を管理することの出きる能力を、発揮しようとしない、怠慢な、徳を磨こうとしない人間に見切りをつける事になるのです。
「ポンペイ最後の日」と題する映画を見たことがありますか。 イタリアの有名な噴火山
べスヴィアスが噴火したときにポンペイは火山灰に埋もれて全滅したのです。 恐ろしい瞬間まで気付かずに普段の生活をそのままに続けていた人々、又逃げ場を失った避難者の化石がそのままに残っていて、噴火の恐ろしさを如実に物語っているのです。 しかし、このとき噴火を注意深く観察していた人々は、避難して難を逃れることが出来たのです。
私達は、人生を注意深く生きなければならないのです。 津波を知らずにどうして海岸で安全に暮らすことが出来るでしょうか。 遭難した観光客も色々な意味で不注意と言うべきです。 火山噴火の恐ろしさを知らずにどうして火山の近くに住むことが出来るでしょうか。
地表の重力は、地表に住む私達にとって常に忘れることの出来ない存在なのです。 重力の存在を忘れた人は、即座に事故を起こしてしまうのです。高い所から飛び降りたら大怪我をするか死ぬかでしょう。 高い所から飛び降りた人は、愚か者と言われるのです。 この論法で行くと地震、津波、火山を知らずに生きている人は、愚か者ということになるのです。
私達は、災害が起こった時には、十二分に反省しなければならないのです。
天は、自ら助くる者を助く・・・・やるべきことをしない人を神は救うこと
が出来ないのです
人事を尽くして天命を待つ・・・・最善を尽くしている人に神は救いの手を
差し伸べるのです
私達の知や能力には、限界があってその先のことは解りません。ですからその先は神に頼って、神に祈るのです。 最善を尽くしている人が神を信じて祈れば奇跡が起るのです。
平成十七年三月五日 時任靜吉
森佳子さん卒業おめでとう
六年間よく頑張りました。 時任学園の事を忘れないで、人生の荒波を乗り切ってください。 時々学校に顔を見せてください、そして美味しいお料理を作ってください。
その日を楽しみに待っています。 さようなら
神の存在−その(]U)
6月も半ばになると時任学園の叢には、セイダカアワダチソウ(背高粟立ち草)が目立ち始めます。 時任学園ではこの外来の草を眼のかたきにして駆除しています。
なぜかと言うと、セイダカアワダチソウはみるみる背が高くなって他の草の生長を阻んでしまうからです。この草は、この伸び盛りの時期には簡単に抜けるので、草刈はせず(草刈をすると他の草まで刈ってしまいますから)手で抜き取ることにしているのです。
6月21日の朝の見廻りの時、皆でセイダカアワダチソウの抜き取りをはじめたところ
新入生のs君は、叢の中で最も目立っていたやまゆりを抜こうとしたのです。これを目早く
見つけた時任先生はすぐさま止めさせたのですが、残念ながら見事な花の蕾を4〜5個も付けていたやまゆりの上半分を折ってしまったのです。時任先生の落胆ぶり、何と気の毒なことか。[ヤマユリを大切にしようと何度も言っていたのに] ! その注意をいい加減に聞き流して、セイダカアワダチソウとやまゆりの区別もついていなかったこの新入生に、時任先生は、厳しく反省するようにと注意することになってしまったのです。
この新入生は、今後けっしてやまゆりを、他の草と間違えることはないでしょう。
この生徒は、無知によって罪を犯したことになるのです。
時任学園には、野草がいっぱい生えていて、「草刈も満足に出来ていない学園か」と言う印象を持った見学者が居るようです。 しかし野草の知識が無いのに草刈を行なうのは、野草保護の面から言ってよくないことです。 気がつかないうちに貴重な草、木を絶滅に追い込んでいるのです。草刈の時期を変えると、地上の植物相は、すっかり変わってしまうのです。
時任学園の草や木の無農薬栽培の成功は、長い時間をかけた忍耐の結果得られたものです。
神の思し召しを理解するには、いい加減な知識ではない、本当の知識が必要なのです。
こと、草刈のように簡単そうに見えることでも、ものごと簡単ではないのです。
あなたは、神に祈るとき何と祈るのでしょうか。
「私は、今迄罪を犯したことはありません。どうか私を災害からお守り下さい」
と祈るのは感心しません。何故ならば罪を犯していない人などこの世には一人も居ないからです。
罪とは何でしょうか。
一般的にいうと、人間のしてはならない、正しくない行い。
法律に背く行為
道徳に反する行為
宗教の教えに背く行為
等でしょうが
法律に背く行為は、法律によって罰せられ、
道徳に反する行為は、良心の呵責によって罰を受け、
宗教の教えに背く行為には、破門と言う厳しい罰があったりします。
法律に背く行為は、法律を調べれば解かりますし、
道徳に反する行為は、その人の良心の自覚によりますし、
宗教の教えに背く行為は、宗教の教えを調べればわかるでしょう。
これらの罰は調べることによって、その内容により、罰を受けているのだなということが
解かります。
しかしよく考えて見ましょう、罪の殆どは自覚の無い無知によって犯されているのではありませんか。 その中で最も重要なのが神の教えに反する行為−罪―なのです。
此処でいう神とは、所謂宗教で言う神のことではなく、論理的に考えて、この天地を創造したと思われる存在のことです。
何れにしろ、自分の信ずる神をよく知らずに祈るのではなく、その思し召しを良く知り、理解して祈るのでなければ、祈りは神には届かないのです。
自分の信じている神をよく理解しましょう。そして自分の信じている神がいい加減な神でないことを確かめ、真の神を見つけたらどのように祈ったらよいか考えましょう。
そのようにしないと、祈ることが反って真の神の怒りを招くことが有るかもしれません。
ところが、この神の教えを、正しく。詳しく教えてくれる人が殆ど居ないのです。
ですから殆どの人は、無知によって自覚の無い罪を犯しており、罪を犯しても気がつかないのです。
宝くじに当たることを祈ってみたり
大学受験合格を祈ってみたり
鰯の大漁を、鰯の神様に祈ってみたり・・・これらは祈ること自体天地創造の神に対する知性程度の
低い罪となるでしょう
その他知性程度の高い罪や、判断の難しい罪など色々あって「私は、罪を犯したことの無い者です」
などとはとても言えることではないのです。
神の思し召しを完全に理解することは不可能と思われますが、出来るだけそれに近づくよう努力を続けましょう。罪を自覚することによって神に近づくようにしましょう。
従って真の神に祈るときは
「私は、愚かで罪深いものですが・・・・・・」と祈らなければならないでしょう。
私達は、何のために学ぶのでしょうか。殆どの人がその真の目的をまちがえているのです。
有名上級学校に進学する為、よい会社に勤めるため、高収入を得てよい結婚をする為、
高級車を乗り回し、豪華な邸宅に住み、かっこよく、有名になって、高い地位を得て・・・
これらはみんな間違いです。生活の手段と真の目的を間違えないようにしましょう。
私達は、無知による罪を犯さないようにする為に学ぶのでなければならないのです。
島田さん卒業おめでとう、貴女の時任学園での生活は、3年間でしたが、真面目に努力
を重ね、卒業することが出来て、大変うれしく思います。卒業後もその真面目さを失うことなく、
無知による罪を犯さないように ! 生きてゆくことが大切です。
元気で、明るく頑張ってください。 時々学校に顔見せに来てください。
では さようなら 幸せを 祈って ? います。
平成十八年三月四日 時任靜吉
反省のない人が道徳を学んでも意味はありません。学んでも生きてこないからです。
反省は、良きにつけ、悪しきにつけ常に行なわなければいけません。結果がよくとも、悪くとも常に行なうのです。結果が悪かったら反省する。結果がよかったら反省の必要はないという人が居ますけれども、これは間違いです。結果が良かったら何故よかったのか反省しましょう。そうすると結果がよかったのは、自分のやり方が巧かったと言うのではなく、その殆どが他の人々の協力にあったことが解るのです。そこで感謝の気持ちが湧いてくるのです。
そして、あまりにも多くの人々のお世話になっていることが解り、その源が神であることが解って、神に感謝のお祈りをすることになるのです。神に感謝すると総ての人に感謝したことになるのです。
真実は、神の所業に属し、嘘、つくりごとは、悪魔の所業に属するのです。 私たちの頭には、神と悪魔と自分と計三つの座があって、神の座に神がおれば、自分は神と共にあり、悪魔の座に悪魔がおれば、自分は悪魔と共にあるのです。―
これは言い換えれば我々の頭(こうべ)には神の霊と通信できるコンピューターが埋め込まれているようなものです。このコンピューターには神と通信できるソフトが入っており、我々が祈りを捧げるとこのソフトが自動的に働いて神と通信できるようになるのです。
この通信用の電波は恐らく人間には感知できない電波か、あるいは超電波(光速を超える、神が宇宙の何処に居ようとも直ちに届く)ではないかと思われます。
ところがこのコンピューターに悪魔が悪魔用のソフトを組み込むことに成功したのです。 これが人間の悪行の始まりであり、このことを神は、霊感を持って預言者たちに知らせ聖書を作らせたのです。 悪魔の働きによって人間は数々の重大な罪を重ねるようになり救い主キリストが必要になったのです。
我々は、悪魔のソフトに汚染されないようにしなければなりません。
嘘は悪であり、悪は、死につながるのです。嘘が物質的損害をもたらすだけならばまだ我慢もできましょう。しかし嘘は生を損ない、命さえ損なうことになることを銘記しましょう。
人間は、性善なる存在なのです。性悪になったのは悪魔のソフトを盛んに使うようになったからです。 キリストは、幼子を特に愛しました。これは幼子がまだ悪魔に汚染されていないからです。 幼児は、悪を知らず、疑うことを知らず、両親の全てを善と信じているのです。 両親が悪を行ってもこれを善として受け止めるのです。 これが神のソフトと矛盾し、子供の性格を歪めることになるのです。 そして悪魔のソフトが働き始めるのです。
子供は、親の鏡と言われています。世間体をいかに繕おうとも、子供に親の歪みが現れるのです。最近の親子関係の歪みは、恐ろしい現実となって社会に表面化してきました。
世の趨勢が大人を歪め、その大人が子供を歪めているのです。この状況を救うのは大人の厳しい反省以外にないのです。
今年の卒業生は、1名です。杉浦さん、卒業は延期になりましたけれども、諦めずよく最後まで頑張りました。
どうか時任学園の生活を忘れず、先生方の注意を心に留め、
神の存在―その (]Y)
今年の卒業生は、1名です(卒業生が1名なのはこれで連続して4回目になります)。それでも卒業文集を作りたいと言って寄稿文の申し入れをしてきたのです。毎年、期限に遅れながらも神の存在という題名で卒業文集に参加させてもらって12年間続けてきたのですが、去年はその機会が無く神の存在(]V)はお休みで、歿にしたのです。(没にしないで復活させることにしました。) そしてこの機会に今年からこの寄稿はお終いにしようと思って気楽に構えていたのです。
医者に私の心臓の深刻な危機を知らされてから、早いもので6年の歳月が流れました。その間曲折はあったものの快方に向かい、昨年秋の検査では、心臓の血液駆出率が55%と健康人と変わらぬまでに改善しました。これは奇跡的なことです。私の心臓は、発病当時の大きさに比べて体積比でほぼ1/2に縮小したのです。又一昨年の秋から50肩と医者に診断されて改善に努めてから一年半今やっと苦しみから解放されて夜もよく眠れるようになり、神の恵みに深く感謝しているところです。 だがこの長い期間の間に、自分の体を労わって来たことが原因で、何事にも消極的になり、気楽な毎日を送ることに、肉体も、精神も慣れてしまったようです。体や頭を真剣に使うことに自信が無くなっていたのです。
しかしながら今年の卒業生は、物事を予定通りキチンと片づける生徒で、普段からこの几帳面さに感心していたものですから、卒業文集の予定を黒板に書き出されて、それを見てこれは頑張ってやらなければと思ったのです。また昨年亡くなった私の長兄(精神神経科・内科の医師)の遺品を整理していたら気になる題名の本をみつけてしまいました。最近は目の疲れから読書は30分ともたないので必要と思われる本でもなるべく読まないようにしていたのですが、この本を読んでみたのです。 内容に引き込まれて最後まで読んでしまったのです。
本の題名は「平気でうそをつく人たち」
著者 M・スコット・ペック 訳者 森 英明 出版 草思社
著者は、精神神経科の医師でベトナム戦争当時の米軍に精神科の医師として9年間勤務後、1972年に
コネチカット州ニュウブレストンで心理療法カウンセラーを開業,同州ニゥウミルフォード病院精神神経科クリニック所長を務めた人だそうです。
この本を読んで、嘘が相手の心に傷を負わせ、時には命おも損なうことがあるということがよく解りました。そしてやるべき事をしない怠惰も嘘と同じように悪であると記されておりこの記事にショックを受けたのです。 それが今の私ではないかと。 それでこれはいかん ! やるべき事はやらなくてはと発奮したのです。この本には 悪は死につながり、善は命と生気につながると言うことも記されています。 嘘が悪であれば、嘘は死につながるのです。
著者は、心理学を科学として完成させたいと努力しているように見受けられ読んでいて好感がもてました。善と悪との問題に取り組んでいるこの医師の努力はやがて宗教と科学を結びつける懸け橋となるような気がします。科学者と呼ばれる人々は視野が狭いという欠点があると思います。その狭い視野の中で神を論ずることなどおこがましいことです。この心理学者(著者のような)はそのような科学者とは少し違うようです。健闘を祈っているところです。
さて、この本は善と悪とについて心理学的な目で分析しており、大変参考になったのですが、この本の内容を詳しく書き出すことは、この程度のレポートではとても無理なことですので、わかりやすい例をー著者には無断で大変申し訳ないことですがー一部訳文そのままを写させてもらうこととしました。(出版社には善と悪とについて道徳の研究の参考とするためと連絡し、許可を得てあります)
本文61ページより
それは、私が精神科医としての訓練を受け始めた最初の年の二月のことだった。入院患者の診療を担当していた私のもとに、抑うつ症との診断を受けた15歳の少年ボビーが、緊急治療室から移されてきた。ボビーとの最初の面接を行う前に、私は、入院を受け入れた担当医の書いたカルテの特記事項を読んでみた。
ボビーの兄スチュアート(16歳)は、昨年6月に22口径ライフルで頭部を撃って自殺した。当初、ボビーは、このただ一人の兄弟の死にどちらかと言えばよく対処していたように思われた。しかし、九月に新学期が始まって以来、彼の学業成績は低下し、以前はBの評価を受けていた学科の成績がすべて落ちている。感謝祭のころに、は、彼の抑うつ状態は顕著なものとなった。両親はひどく心配して彼との対話に努めたが、彼はますます無口になり、とくにクリスマス以降その状態が悪化した。これまで反社会的な行動をとったことのない彼が、昨日、盗んだ車を運転し(彼には車の運転の経験はない)、衝突事故を起こして警察に逮捕された。裁判の日は3月24日となっているが、年齢を考慮し、両親のもとでの監視を条件に釈放され、ただちに精神科医の診察を受けるよう勧告された。
助手が私の診察室にボビーを連れてきた。思春期初期の急成長を終えたばかりの、14歳の少年特有の体格―棒きれのように長くか細い腕と脚、まだ肉がつきはじめていないやせた胴―の少年だった。
服装は、体には合っていないが、とくに目立つものではない。やや長めの洗髪していない髪の毛が目の上までたれ下がり、その表情をうかがうことはむずかしい。床に視線を落したままでいるため、なおさらのことだった。私は、弱々しくたれ下がったままの彼の腕をとり、いすに座らせた。
「やあ、ボビー。私の名はペック。君を看ることになっている医者だ。気分はどうだい」
ボビーからはなんの言葉もなかった。ただ座って床を見つめているだけである。
「昨夜はよく眠れたかい」私はこう質問した。
「眠れたと思います」ボビーは呟くように答えると、手の甲の傷をいじりはじめた。彼の両腕、両手に似たような傷がたくさんあるのに私は気づいた。
「こうゆう病院にいるんで、不安になっているのかな」
答えはなく、手の甲の傷をかきむしりはじめている。彼が自分の肉体に加えている損傷を考えて、私は内心ぞっとしていた。
「はじめてこの病院に来たときは、誰だって不安になるよ。だけど、ここは安心できる場所だってことがすぐわかる。どうして君がこの病院に来ることになったのか、話してくれないか」
「親に連れられて来た」
「どうしてご両親は、君をここに連れて来たんだろう」
「車を盗んで、病院に行けって警察に言われたから」
「警察が病院に行けって言ったわけじゃないと思うよ。ただお医者さんに診てもらうよう言っただけなんだ。それで、ゆうべ君を診察した先生が、君はうつ病にかかっているから、入院したほうがいいんじゃないかって判断したんだ。ところで、どうして車なんか盗む気になったんだい」
「わかりません」
「車を盗むなんてことは、かなりおっかないことだったと思うけどね。特に一人で車泥棒をするなんてことはね。それに君は車なんて運転したこともない。運転免許だって持ってないんだろう? 何か、どうしても君にそうさせた何かがあったと思うんだけど、それが何だったか君にわかるかい」
答えはなかった。実を言うと、彼が答えるとは私も期待していなかった。問題を起こして、しかもはじめて精神科医の診察を受けている14歳の少年が、口数多く答えるなどということは考えられない。特に抑うつ状態にあるときはそうだし、この少年は明らかにひどい抑うつ状態にある。彼が何げなく床から視線をあげたときに、
私はその顔つきを素早くうかがうことができた。鈍い表情のない顔つきだった。目にも口にも生気が感じられなかった。映画で見た、強制収容所で生き残った人たちの顔、あるいは、家を破壊され、家族を失った自然災害の被災者の顔だった。ぼう然とした、無感動な、絶望的な顔である。
「悲しい気分になっているのかな」
「わかりません」
おそらく彼にはわからないだろう。私はそう考えていた。思春期初期の子供は、やっと自分の感情の識別を学び始めたばかりの段階にある。その感情が強ければ強いほど、それに圧倒されてしまい、それをどう名付けていいかわからなくなるはずである。
「悲しい気分になる理由が君にはあると思うんだけど・・・・君のお兄さんはスチュアートっていう名前だったよね。スチュアートは去年の夏に自殺したんだってね。君お兄さんとは仲が良かったのかい」
「はい」
「お兄さんと君の仲について話してくれるかい」
「話すことなんかありません」
「お兄さんが死んだことで、君は傷ついて混乱しているんだ」私はこう言ってみた。
何の反応も見られなかった。ただ、前よりもひどく腕の傷をかきむしりはじめたように思われただけだった。明らかに彼は、この最初の面接で自分の兄の自殺について話せるような状態にはない。私はとりあえずこの問題を棚上げにすることにした。「お父さんやお母さんについてはどうかな。お父さんやお母さんについて、何か話してくれないかな」
こう私は聞いてみた。
「優しいです」
「そりゃいい。どんなふうに優しくしてくれる?」
「ボーイスカウトの集まりの、ときなんか車で送ってくれます」
「いいことじゃないか。もちろんこれは、普通の親ならだれでも、できる時にはしてくれることだと思うよ。お父さんやお母さんとはうまくやってるんだね?」
「はい」
「問題はないんだね?」
「時々は、親に悪いこともします」
「ほう、どんなこと?」
「親を困らせます」
「どんなふうに困らせるのかな」
「車を盗んだりして」ボビーはそう答えたが、これは得意がっているわけではなく、もの哀しげな、絶望的な重苦しさを伴った言い方だった。
「ひょっとしたら、そのために君は車を盗んだんではないかって、そう思わないかい? 親を困らせるために」
「いいえ」
「そうか君には親を困らせるつもりはなかったんだ。ほかに、どんなふうにして親を困らせてきたと思う?」
ボビーは答えなかった。しばらく間を置いた後、私は答えを促した。
「どうなの」
「ただ困らせるってことはわかります」
「だけど、どうしてそれが君にわかる?」
「知りません」
「お父さんやお母さんから罰を受けることもあるのかい」
「いえ。二人とも優しくしてくれます」
「だったら、どうして君がご両親を困らせるって考えるんだい」
「怒鳴られるんです」
「ほう。どんな時に怒鳴られる?」
「わかりません」
いまやボビーは、しきりに手の甲や腕の傷をかきつづけ、頭をこれ以上下げられないというほど低くうなだれている。私はもっとあたりさわりのない問題に質問を向けるほうがいいと考えた。そうすれば彼も少しは心を開き、我々二人の関係も発展しはじめるにちがいない。
「家では何かペットを飼っている?」私はこうきいてみた。
「犬を飼ってます」
「どんな種類の犬?」
「ジャーマン・シェパードです」
「なまえはなんてつけてる?」
「インゲ」
「ドイツ人の名前みたいだな」
「そうです」
「ドイツ・シェパードにドイツ人の名前か」私は、今自分が置かれている取調官のような立場から何とかしてして抜け出そうとしてこう言った。「いつもインゲを連れて歩いてるのかい」
「いいえ」
「世話は君がしているの?」
「はい」
「だけど、あまり気に入ってるみたいじゃないね」
「あれは父の犬です」
「ああ、そうか。だけど、世話は君がしてるんだろう」
「はい」
「なんだかおかしな話だね。それで君は腹が立たないのかい」
「いいえ」
「自分のペットがほしいと思う」
「いいえ」
どうもペットの話題はうまくいきそうもなかった。そこで私はもう一つの話題、若い人の興味を引き出させそうな話題に切り換えることにした。
「クリスマスはついこのあいだのことだったように思えるけど、クリスマスにはどんな贈り物をもらった?」
「たいしたものじゃありません」
「お父さんやお母さんから贈り物をもらったと思うけど、どんな贈り物だった?」
「銃」
「銃?」私はばかみたいに相手の言葉をくりかえした。
「ええ」
「どうゆう銃?」
「22口径」
「22口径のピストル?」
「いいえ、22口径のライフルです」
長い沈黙が続いた。私は途方に暮れるような気持ちになっていた。面接を打ち切りにしたいと考えていた。このまま家に帰りたいと思っていた。ようやく私は、自分をせきたてるようにして言うべき事を言った。
「君の兄さんが自殺に使った銃も22口径だったと思うけど」
「はい」
「クリスマスの贈り物にそんなものが欲しいと言ったのかい」
「いいえ」
「じゃあ何が欲しいって言ったんだい」
「テニスのラケット」
「だけどもらったのは銃だった」
「ええ」
「どんな気持ちがした? 兄さんが持てたのと同じ種類の銃をもらって」
「同じ種類のじゃありません」
私はほっとした気分になりはじめていた。たぶん私が勘違いしていたのだろう。
「ごめん。同じ種類の銃かと思ったもんで」
「同じ種類の銃じゃない」ボビーが答えた。「あの銃です」
「あの銃?」
「ええ」
「つまり兄さんの銃?」今や私は、今すぐにでも家に帰りたい気持ちになっていた。
「はい」
「君の兄さんの銃、兄さんが自殺に使った銃をクリスマス・プレゼントにもらったっていうのかい」
「ええ」
「兄さんの銃をクリスマス・プレゼントにもらって、どんな気持ちがした?」
「わかりません」
こんな質問をしたことに、私は後悔に近いものを感じていた。
彼にわかるわけがないだろう、こんな質問にボビーが答えられるわけがないじゃないか。
私はボビーの顔を見た。銃の話をしている間、彼の様子には何の変化も見られなかった。相変わらず傷をかきむしり続けているだけである。そうした仕草が無ければ、彼は死んだ人間のように見えたにちがいない。恐怖を通り越した鈍い目つき、物憂げな、生命を失ったも同然の無表情。
「ああ、君にわかるはずないよね。ところでおじいさんやおばあさんにあったことある?」
「いいえ。サウス・ダコタに住んでいるから」
「親せきの人で、君に会ったことのある人はいる?」
「はい」
「親せきの人で君の好きな人は?」
「ヘレン叔母さんは好きです」
このときの彼の答には、かすかながらも気持ちがこめられているように私には思われた。
「この病院にいるあいだ、ヘレン叔母さんに見舞いに来てもらえたらうれしいかい」
「遠くに住んでいるんです」
「だけど、なんとか来てくれるとしたら?」
「叔母さんがきたいっていうんなら」
このときの彼の言葉にも、かすかな期待がこめられているように私には感じられた。また私自身にもそうした期待があった。ヘレン叔母さんという人に連絡をとってみようと私は考えた。もうこの面接は終わりにしたいと思った。これ以上は耐えられなかったのである。私は、ボビーに病院内での日課を説明し、翌日また私が診察する、病院の中では看護婦が親切に面倒みてくれる、寝る時間になったら看護婦が睡眠薬をくれるはずだ、と伝えた。それから私は、ボビーを看護室に連れて行った。
ボビーに関する書類の作成を終え、私は病院の中庭に出てみた。
雪が降りはじめていたが、私はこの雪を喜んだ。数分間、降る雪を身に浴びたままたたずみ、それから診察室にもどり、退屈な、きまりきった書類仕事に没頭した。こうした仕事ですらその時の私には喜ばしいものに思われた。
翌日、私はボビーの両親に面接した。二人の話によると、彼ら二人は仕事熱心だという。夫のほうは工具やダイスをつくっており、自分の腕の確かさに誇りを抱いているベテラン機械工である。妻のほうは保険会社に秘書として勤め、家庭をきちんと維持していることに誇りを持っていた。二人とも毎日曜日にルーテル教会に通っている。夫は、週末にはビールをほどほどに飲む。妻のほうは木曜の夜の女性ボウリング・リーグに加わっている。二人とも身長は平均程度、とくに容姿端麗でんなければ醜くもないといったこの夫婦は、ブルーカラー階級としては上層に属し、物静かで、秩序正しく、堅実な夫婦である。見たところ、こうした悲劇―最初が長男のスチュアートの自殺、そして今度はボビーの事件―が降りかかるなどということは、全く理不尽なことのように思われた。
「私泣きました」母親のほうが言った。
「ご長男の自殺は、お二人には信じられなかったでしょうね」私はこうきいた。
「まったくです。ひどいショックでした」父親が答えた。「あの子はしっかりした子でした。学校の成績も良かったし、ボーイスカウトにも入っていました。家の裏の原っぱでリス撃ちをするのが好きでした。口数は少なかったんですが、誰からも好かれていました」
「自殺の前に、沈み込んでいる様子は見られませんでしたか」
「いいえ、そうゆうことは全くありませんでした。いつもと同じだったと思います。もっとも、無口な子で、自分の考えていることをあまり口にしない子でしたから」
「遺書みたいなものはなかったんですか」
「いいえ」
「お二人のどちらかの血縁の方で、精神病とか、ひどいうつ病にかかった方、あるいは自殺した方はいらっしゃいませんか」
「私のほうはありません」父親のほうが答えた。「両親はドイツからの移民で、ドイツにはけっこう親類もいるようですが私はあまりよく知りません」
「私の祖父は老人性痴ほう症で入院していましたが、ほかに精神的な病気にかかった者はいません」続いて母親が答えた。「自殺した者も一人もいません。――あの先生まさかボビーまでが…ボビーまでそんな事をするなんて言うつもりじゃないでしょうね」
「そう考えています」私はこう答えた。「その可能性はおおいにあると思います」
「なんてことなの、そんなの我慢できない」母親は静かにむせび泣いた。「そうゆうことって、つまり自殺っていうのは、家族に続いて起こることなんですか」
「ええ。統計的には、兄弟姉妹に自殺者のいる人の場合、その人も自殺する危険性が高いと言えます」
「なんてことなの」母親がまたむせび泣いた。「本当にボビーも、そんなことするかもしれないってことですか」
「息子さんが危険な状態にあると、考えたことはなかったんですか」私はこう質問した。
「いやこれまでいちども」父親は答えた。
「しかし、息子さんは、かなりの期間、うつ状態にあったはずです。ごしんぱいじゃなかったんですか」
「いやむろん心配しましたよ」父親が答えた。「しかし、それは当然のことだと思っていました。あの子の兄が死んだりしたものですから。そのうち治るだろうってかんがえていました」
「精神科医とか、そうゆう人に診せようとは考えなかったんですか」私は続けて質問した。
「いやそんなことは考えもしませんした」また父親が答えたが、その口調には不快感がこめられていた。「いまもお話ししたとうり,こうゆうことはそのうち終わると思っていましたから。それほどひどいとは思っていませんでした」
「息子さんの学校での成績が下がっていると聞いてますが」
「ええ、恥ずかしいことですけどね」今度は母親が答えた。「あんなに成績がよかったのに」
「学校でも、息子さんのことを多少は心配していたと思いますが、この問題で学校から何か連絡はありませんでしたか」
かすかにではあったが、母親が落ち着きのない様子を見せた。「ええ、ありました。もちろん、私も心配しました。仕事を休んで父母面談にも行きました」
「その必要があるときには私のほうから学校と連絡をとりたいんですが、かまいませんか。そうするほうがいいと思うんですが
「ええ、もちろんです」
「その父母面談のとき、学校側では誰も、息子さんを精神科医に診せるように言いませんでしたか。」
「いいえ」母親が答えた。彼女はもう平静さを取り戻しているように見えた。というより、彼女が平静を失っていたかどうか、私は疑問に思った。
「何か、カウンセリングのようなものを受けさせたほうがいいという話はありました。でも精神科医に診せるという話はありませんでした。そうゆう話があれば、もちろん私たちもそうしたと思います」
母親はこう続けた。
「そうですそうしていれば、どれほどひどいものだったか、我々にもわかったと思うんですがね」父親が後を続けていった。「話がカウンセリングということだったもんで、ただ息子の成績のことだけが問題になってるんだと思っていました。もちろん、成績が心配じゃなかったというわけではありません。ただ、必要以上に息子を追い詰めるってのは良くないですよね、先生?」
「息子さんをカウンセラーの処に連れていくことが、追いつめることになるかどうかはわかりませんが」私はこう言った。
「そうよね、追いつめるってことにはならないわよね」こう母親は言ったが、その時の彼女は守りの姿勢よりも攻撃の姿勢を見せていた。「うちみたいなところでは、平日に子供をあちこち連れてゆくのはむずかしいんです。うちは二人とも働いていますからね。それにそのカウンセリングをやってくれる人たちってのは、休みの日には会ってくれませんからね。仕事を毎日休むってわけにはいきませんもの。生活していかなきゃならないんですから」
夜間あるいは週末に利用できるカウンセリングサービスを見つけることができたはずだ、いやできなかった、といった議論をボビーの両親相手にしても実りはないように思われたので、私はヘレン叔母さんの問題を持ち出してみることにした。
「ところで、息子さんの入院はごく短期間になると思いますが――私の判断では、恐らく私の上司も同じ意見だと思いますが、息子さんはしばらく違った環境で暮らす必要があるんじゃないかと思います。息子さんを引き取って、しばらく一緒に暮らしてくれる親せきの方はいらっしゃいませんか」
「いないと思いますがね」父親がすぐさま答えた。「年ごろの男の子をおいてくれるような親類はいないと思いますよ。みんな自分の生活で手いっぱいですからね」
「息子さんからヘレン叔母さんのことを聞きました。その叔母さんなら引き取ってくれそうな気がするんですが」私はこう言ってみた。
母親が話に割り込んできた。「私たちと暮らしたくないって、息子がそう言ったんですか」
「いいえ、この問題についてはまだ息子さんにも話していません。あらゆる可能性を考えて、そうお話ししてみただけです。そのヘレン叔母さんという方は、どうゆう方ですか」
「私の妹です」母親が答えた。「でも、それは問題外です。妹は二、三百マイル離れたところに住んでいますから」
「そんなに遠いとは思えませんね。それに、息子さんの生活環境を変えることを考えているんですから、それぐらいは離れているほうがいいと思います。息子さんがときどき帰ってこられる距離ですし、お兄さんが自殺した場所、それに、そのほかに息子さんが今経験している圧力の生じている場所からは十分に離れています」
「役に立つとは思えませんわ」母親が言った。
「ほう?」
「その・・妹とは私あまり付き合いがありません。というか、全然付き合ってないんです」
「どうしてなんでしょう」
「ただうまくいってないってことです。妹はお高くとまっています。妹はそうゆう女です。どうしてそうなったのか私にはわかりませんけど。ただの掃除婦なのにね。ヘレンのだんなってのがまた、あまりぱっとしない男で、二人で清掃サービスのしごとをやっています。
どうすればあんな偉そうな態度をしていられるのか、わたしにはわかりませんね」
「妹さんとうまくいっていないことはわかりました。ほかに、息子さんがいっしょに暮せそうな人はいませんか」
「いいえ」
「奥さんは妹さんがお嫌いのようですが、息子さんはこの叔母さんになんとなく好感を持っているようです。これは大事なことだと思いますね」
「ちょっといいですか、先生」父親が話に加わってきた。
「そうやって何を探り出すつもりか知りませんがね、先生はまるで警官か何かのような口のきき方をしますね。おれたちは何も悪いことはしていない。もし先生が、子供を親から引き離そうとしてしているんだったら、そんな権利はあんたにないはずだ。おれたちはあの子のために一生懸命働いてきた。いい親だった」
私はだんだん胃がむかつくような気持ちになっていた。
「私が気になっているのは、あなた方が息子さんに上げたクリスマスプレゼントのことなんですけどね」私はこういった。
「クリスマスプレゼント?」二人は当惑したような顔をした。
「ええ。銃をあげたそうですね」
「そうですが?」
「息子さんが欲しがったんですか」
「あいつが何を欲しがっていたか、わかるわけないでしょう?」
父親はけんか腰の口調になったが、そのあとすぐ、哀れっぽい言い方でこう言った。「息子が何を欲しがっていたか、覚えていませんよ。何しろあんまりいろいろの事が起こってね。この一年間は実に苦しい一年でしたよ」
「それはわかります。しかし、どうしてまた銃なんかをやったんです?」私はこうきいた。
「どうしてかって? いいじゃないですか、あの年頃の男の子にはいいプレゼントですよ。あの年頃の男の子ってのは、たいてい銃を欲しがるもんです」
私は、ゆっくりした口調でこう言った。「もう一人の息子さんが銃で自殺したんだから、あんたがたは銃というものにいい感じを持っていないと思っていました」
「あんた、例の銃撲滅運動の人ですか」父親が再び、かすかにけんか腰の姿勢を見せてこう言った。「まあいいでしょう。そうゆう人もいますからな。おれ自身はガンマニアじゃないですけどね。しかし銃が問題じゃない、使う人間が問題なんだって、そう考えてますよ」
「ある意味では私もそう思います。上のお子さんが自殺したのは、ただ銃を持っていたからというわけじゃない。もっと大きな原因があったはずです。その原因がお分かりになりますか」
「いや。スチュアートがふさぎこんでいたことも知りませんでした」
「そのとおりです。上の息子さんはふさぎこんでいました。人間は、ふさぎこんででもいないかぎり、自殺なんてしないもんです息子さんがふさぎこんでいたことも知らなかったわけだから、銃をもっていることをしんぱいする理由もなかったわけですね。しかしボビー君がふさぎこんでいたことはご存じだった。クリスマスのずっと前からふさぎこんでいた。プレゼントに銃をもらうずっと前からです」
「ねえ、先生。先生にはお分かりにならないと思いますけど・・」
母親が、とりなすように夫の後を引き受けて言った。「こんなに深刻な問題だっていうこと、本当に知らなかったんです。ただボビーは、兄のことで気持ちが動揺しているとばかり思ってたもんですから」
「それで、お兄さんが自殺に使った銃をくれてやったっていうんですか。ほかの銃じゃなくて、自殺に使った銃ですよ」
ふたたび父親が前面に出てきてこう言った。「うちには新しい銃を買ってやる余裕なんかないですからね。なんでそうゆうことで責められるのかわかりませんね。我々にしてやれる、一番いいプレゼントを息子にしてやった。金ってのは、その辺の木にぶら下がってなってるわけじゃない。うちはただの労働者家庭です。銃を売って金を作ることもできたはずだが、そうはしなかった。とっておいて、子供のプレゼントにするつもりだったんだ」
「それが息子さんにどう受け止められるかってことは、考えなかったんですか」
「どういうことです?」
「兄が自殺に使った銃をくれてやるってことは,弟にも同じことをしろ、兄と同じように自殺しろっていうようなもんじゃないですか」
「そんなことはボビーにはひとことも言ってません」
「当り前ですよ。しかし、ボビー君がそうとるとは、考えてもみなかったんですか」
「いや。そうは考えませんでしたね。おれたちは、あんたみたいに教育を受けた人間じゃない。大学に入って、カッコイイものの考え方を習ったわけじゃない。おれたちはただの労働者です。そうゆうふうに考えろって言われたって、無理な話だ」
「たぶんそうかもしれません。しかしそれが問題なんですよ。つまりそういうことも考える必要があるということです」
私たちは、長いあいだ互いに相手の顔を見つめあっていた。この二人はどう思っているのだろう。私はこういぶかった。この夫婦が罪の意識を持っていないことは確かだ。腹を立てているのか。おびえているのか、被害者意識に陥っているのか、そこのところはわからない。彼らに対してわしはなんの共感も抱いてはいなかったが、自分がどういう感情を持っていたかはわかる。私は二人に反感を感じていた。それにひどく疲れていた。
「息子さんのことや今度の事件について妹さんに連絡したいんですが、許可していただけますか」私は母親のほうを向いて言った。「お二人の同意の署名を頂きたいんですが」今度は父親のほうを向いて言った。
「同意なんかしないね」父親が答えた。「身内の問題を家族以外の人間に話してもらいたくないし、それに、あんたはずいぶん偉そうなことを言うね。まるで裁判官か何かのようにえらそうなことをいう」
「その反対ですよ」私は冷たいほど理性的にこう言った。「私がしようとしていることは、この問題を可能な限り家族内で処理するために、最良の方法を取ろうとしていることです。今現在は、この問題の関係者は、あなた方ご両親と私と、それに息子さんのボビー君だけです。私は、これにボビー君の叔母さんを加える必要があると考えています。少なくとも、その叔母さんが力になってくれるかどうか、たずねる程度のことはする必要があると思います。お二人の同意が頂けないとなると、この問題を上司に相談しなければなりません。そうなると、問題を州の児童保護局に回さざるをえなくなるんじゃないかと私は思っています。そうなると、あなた方は本当の裁判官を相手にすることになります。いずれはそういうことになると思います。しかし、もしボビー君の叔母さんが力になってくれるというんでしたら、州当局に話をする必要もなくなると思います。
もっとも、これはお二人次第です。ヘレン叔母さんに連絡する許可をいただけるかどうかは、あなた方ご両親が決めることです」
「あら、うちの人がばかな事を言ってごめんなさい、先生」ボビーの母親が明るい魅力的な微笑みを見せながら言った。
「息子を精神病院なんかにいれることになって、気が動転してるんですよ、この人ったら。それに、先生みたいに教育のある方と口をきいたことがあまりないもんですから。もちろん、同意します。
妹に助けてもらうことには反対しません。出来ることは何でもします。わしたちが心配しているのは、息子のボビーのことですから」
彼らは同意書にサインして帰って行った。その晩、私は、妻といっしょに病院の職員パーティーに顔を出したが、普段よりかなり多く酒を飲んだ。
翌日、私はヘレン叔母さんに連絡した。彼女は夫と一緒にすぐ私に会いにきた。二人は事情をすぐに飲み込み、ひどく心配している様子だった。彼ら夫婦もまた労働者だったが、精神科の治療に必要な限り、ボビーといっしょに暮らすことに喜んで同意してくれた。
幸いなことにボビーの両親は、勤め先を通じて、精神科診療にたいして十分な給付を行う保険に入っていた。私は、ヘレンの住んでいる町で最も有能な精神科医に連絡を取ったが、その精神科医は、長期の外来心理療法患者としてボビーを受け入れることに同意してくれた。ボビー自身は、どうして自分が叔母や叔父と暮らさなければならないのか理解していなかったが、それを説明してやったところで、彼にはまだそれに対処できるような心の準備ができていないように思われた。私はただ、そうするほうが君のためにいいのだとだけ言ってやった。
二,三日もするとボビーは、こうした変化を安心して受け入れる気持ちになっていた。それどころか、数回わたるヘレンの見舞い、新しい生活環境に対する期待、病院の助手や看護婦から受けた介護などが功を奏して、ボビーの病状は急速に快方に向かった。入院三週間後の退院の日までには、彼の腕や手の傷はただの傷跡だけとなり、病院の職員と冗談を交わすまでになっていた。
それから六か月が過ぎて、私はヘレンから、ボビーは元気にやっているようだ、学校の成績が再び上がりはじめた、との知らせを受け取った。また私が紹介した心理療法医からは、ボビーは治療に必要な信頼関係を身に付けたが、自分の両親や、彼に対する両親の仕打ちといった心理学的現実にたいしては、ようやくにしてそれを直視する方向に向かいはじめたばかりだということを聞いた。それ以後、私はそれ以上の情報を得ていない。ボビーの両親とは、あの最初の面接後、ボビーの入院中に二度、それもほんの数分会って話をしただけである。それ以上のことは必要ないと私は考えていた。
子供が精神科の診療に連れてこられた時には、その子供は
「みなし患者」と呼ばれるのが通例となっている。この「みなし患者」という名称を用いることによって我々心理療法医は、その子が患者と呼ばれるようになったのは、両親やほかの人たちがそうゆうラベルをはったからであって治療の必要な人間はほかにいる,ということを言おうとしているのである。−・・・・・−
子供にとっては―・・・−親というのは神のような存在である。
……「親の愛に著しい欠陥があるときは、子供は、その原因が自分自身にあると考えて反応する可能性がきわめて高く、そのため、非現実的なまでに否定的な自己像を身につけるようになる」…ボビーが最初に病院に連れてこられた時は、彼自身が、文字どうり抉り取られている穴のようなもので、少しずつ自分自身の表面を破壊しつつあった。あたかもこれは、自分の皮膚の内側、自分自身の内部に何か間違ったもの、何か邪悪なものがあると彼が考え,それを見つけ出すために自分の体をほじくっているようなものである。なぜそんなことになったのだろうか。
自分の親しくしていた人が自殺するようなことがあれば、その最初のショックに続いて我々に生じる反応は―普通の人間、通常の良心を持っている人間であれば―その自殺した人に自分が何か悪いことをしたのではないかと不安になることである。これと同じ反応がボビーにも生じたはずである。スチュアートの自殺の直後、ボビーは、あらゆる小さな出来事を思い出していたはずである。つまり、一週間前に自分が兄を間抜けのデブと呼んだこと、そのひと月前にはけんかの最中に兄を蹴とばしたこと、兄にいじめられたときなどは、この兄が地球上から姿を消してくれればいい、としょっちゅう考えていたことなどである。・・・・・
そうしたときに当然行われるべきこと―そして健全な家庭であれば当然行われたであろうことーは両親が彼を慰め、安心させてやることである。・・・・・おまえの兄さんは心の病気にかかっていたのだと説明してやることである。人間というものは、毎日の口げんかや兄弟同士のいがみ合いで自殺などしないものだと言って聞かせることである。もし誰かに責任があるとすれば、お前の兄さんの人生にもっとも大きな影響を持っていた自分たち親に責任がある、と語るべきである。・・・・・
・・・・・残されている解釈はただ一つ――この銃は自分に対するメッセージ、「お前の兄が自殺に使った銃で、お前も同じように自殺しろ、お前は死んでもいい人間なのだ」というメッセージだと考えることである。
幸いなことに、ボビーはすぐにこのメッセージに従わず、おそらく彼に残された唯一の心理的選択を行った。すなわち、自分自身にたいして公に犯罪者のレッテルをはることによって自分の悪にたいする罰を受け、自分が刑務所に入ることによって社会が悪から保護される、と考えたのである。そこで彼は車を盗んだ。・・・
・・・・・こうした推測から、いまひとつの子供の発達の法則に到達することができる。これは悪の問題に特有のものである。すなわち、「子供が親の著しい悪に直面したときには、ほぼ決まって、その状況を誤って解釈し、その悪は自分自身の中にあると考えてしまいがちだ」ということである。
賢明かつ健全な大人であっても、悪に直面したときには通常は混乱してしまう。だとすれば、自分のもっとも愛する人間、自分が頼りにしている人間の悪に直面した純真な子どもはどうなるだろうか。しかも邪悪な人間は、自分の欠陥を認めることを拒否し、自分自身の邪悪性を他人に投影しようとするものだという事実を考えるならば、その子供が、そうしたプロセスを誤って解釈し、自分自身を嫌悪するようになるとゆうのも当然のことである。ボビーが自分自身の肉体に穴をあけようとしていたのも不思議ではない。
こう考えてくると、患者とみなされていたボビーには病的なところはなく、むしろ彼は、自分の両親に特有の邪悪な「病」にたいして、多くの子供と同じように、予想どうりのかたちで反応していたと考えるべきである。・・・・・・・・・・・・・・
松本さん卒業おめでとう
大人になるということは大変な責任を伴うということです
善とはなにか、悪とは何かを見極めることは難しいことなの
です。 善・悪を間違えない立派な大人になって下さい。
平成20年3月8日 時任@吉
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神の存在 二部―1 23,10,10
時任学園中等教育学校には在校生がいなくなり、従って卒業生もいなくなり、[神の存在]を掲載する理由が無くなったのでしばらくお休みになっていたのですが、時任学園の[神の存在]は青少年に対する道徳教育に大いに参考になると思い再発足することと致しました。[神の存在]は評判が良くありません。ホームページにこのようなものを載せるから生徒が来ないのだと言う批判が多いのです。もしそうならば尚更これを下ろす訳にはゆきません。このような批評が多いことが逆にこのホームページの記事が今の社会にそして純粋に物事を考える青少年に必要だと思われるからです。
真実を追究する青少年は少数派ではあるが、彼らがもし真面目に人生に取り組もうとしているときに参考となるものがあれば彼らが道に迷ったときに救われる可能性が高くなると思うのです。そのような青少年に聖書を読むことを勧めます。
私の考えによれば、聖書を学ぶ為にキリスト教系の学校に入学する必要はありません。また教会に通う必要もありません。それは反って聖書の教えを色付けしてしまうからです。内村鑑三は、教会の弊害を知って、聖書は家庭で寄り寄り集まって研究するのが良いと無教会主義を唱えたそうです。これも一つの方法かもしれません。しかしこれが良いというつもりは有りません。
聖書はあくまでも個人が自分で研究し、自分で理解を進めるべきだと思うのです。結果についての責任は自分自身にあるというのが良いと思います。聖書の理解には洞察力が必要です。聖書自体がそう述べています。洞察力と言ってもそれが独善的であってはなりません。あくまでも客観的に吟味されるようにすべきです。
そこで全国の青少年−中学生・高校生―に聖書を自分で最初から読むことを勧めます。最初から読んで解っても解らなくてもよいから最後まで読んでください。途中で諦めてはいけません。それから一体何が記してあるのか。要点をまとめてください。他人に聞くのはそれからです。聖書自身がー全能の神がー [私はαでありωである] と言っています。説明するまでも無くα(アルファー)はギリシャ文字の最初であり、ω(オメガー)は最後です。つまり全能の神はご自身のことを[私は最初であり、最後である],[私は総てである]と宣言されているのです。
自分で読んで、自分で理解せよと言っているのに私の解説を載せるのは厚かましいのですが、これは一つの例だと思ってください。何もこれにこだわることはありません。聖書を理解するために聖書にある内容は一言、一句間違い無く正しい、真理であるという前提に立って理解するのです。キリストは聖書の律法の文字が一画でも消えさって、[記された]すべてのことが起きないよりは、むしろ天と地が消える方が先であるといっているのです。―マタイ5章18節―。
聖書より
聖書を読もう・・・洞察力を働かせて!
わたしは、αでありωである
創世記 第一章
1始めに神は天と地を創造された。
2さて、地は形がなく、広漠としていて、
闇が水の深みの表にあった。そして神の
活動する力が水の表を行き巡っていた。
3それから神は言われた、「光が生じるよ
うに」。すると光があるようになった。
4そののち神は光を良いとご覧になった。
そして神は光と闇との区分を設けられた。
5そして神は光を”昼”と呼ぶことにし、
闇のほうを”夜”と呼ばれた。こうして
夕となり、朝となった。一日目である。
◎神は、宇宙創造の素を先ず造り上げた。
それは大きな大きな水の塊であった。
これは形がなく広漠としていて表面が
闇に覆われていた。
神は、これに光を照射し、すなわち光を
水の表面と内部に投射し、その表面や
内部に色々な物質―地球や大空の素になる
物質―を創って行った。
光が投射されていると昼である。
投射がやむと夜である。夕となり朝となった。
解説
◎始めに神は天と地を創造された。
これは感動的である。
学校で学んだ地球の成因はお粗末。迫力なく、とても比較にならない。それも次々と変化し色々な説が混在して、まことしやかに教科書に取り入れられている。
例えば月の表面のあばたは、その原因が月の火山活動が原因なのか、隕石の落下が原因なのか分からないで論争の元になったが、最初は火山活動説が有力であったのに最近は隕石説に落ち着いて異議を唱える人が居なくなった。コロコロと変わる色々な説に惑わされながら、これが最新の科学の成果であって一番信頼にたるものとして通用している。科学の発見による新説は真理である筈がないのにこれを真理とするような取り上げ方が、人々を惑わせる。科学の説は、説であって真理ではないということをよく教える必要がある。何時反論があってまこと驚くべきことに、全く反対の結論が出るかもしれないのである。生物の進化論は一つの説である。進化論は真理とは断定できない説であるのに、真理の如く通用する。これは参考とする程度にとどめるのが賢明である。
宇宙の成立に関する説の中で最も重要なのが「ニューウトンの万有引力」である、しかし誤解をしてはいけない。「ニューウトンの万有引力の法則」は宇宙に存在する全ての物質は互いに引力を及ぼしあい、その引力の大きさは計算できるとした内容のものであって万有引力の原因を解明したものではないのである。この際「光を除外」していることが重要である。ニューウトンを神の如く祭り上げている人が居たがニューウトンは勿論神ではない。重力―万有引力―の原因は、未だ解明されてはいないのである。後にアインシュタインンは、空間のゆがみが原因とし光をも含めてーこれを説明しているが、現象は見方・考え方によって全く変わったものとなるのである。しかしアインシュタインもまた神ではない。最近宇宙の成り立ちをビッグバンによって説明した人が居るが、観測された宇宙膨張を根拠として、物質を沢山ばらまけば地球らしき物が何処かに出来るのではないかという考え方である。これは宝くじを沢山買えば当る確立が高くなるという考えに似ている。アインシュタインは言っている。「神はさいころ遊び」は好まれないと。
神は、確固とした、地球を造るという目的を持って地球を造ったのであるからビッグバン説とは全く相容れないのである。―聖書には―[地は神の足台である]―と書いてある。であるから神は地球を造ってから、地球を安定させるために太陽系を造り、更に安定させるために銀河系を造り、更に銀河系のコピーを沢山造ってそれを貼り付けて宇宙を作り上げたのである。ビッグバン説とは全く造り方が逆である。ビッグバン説では宇宙が出来てから宇宙のなかに地球が出来たのである。
註1神が水の塊を創るのにどれくらい時間を要したかは解らない。キリストは水の深みが生ずる前から存在していたので、此の天と地の創造の際の優れた働き手となっていた。昼と夜が出来た時から時間が刻まれ始めたのである。即ち時間が生じたのである。神が「光が生ずるように」と言われた瞬間から時間が始まったのである。光速は有限であり300000km/secである。即ち距離と時間―空間と時間―時空の始まりである。時空を設けることが出来たのは神の霊力であろう。−時空についての考察―参照。
註2神が「光が生ずるように」と言われたこの光は恒星(太陽など)の放射によるものではない。エホバの光であるー啓示の書22-5参照―エホバは光り輝く存在であり、エホバが存在すれば太陽は必要ないのであるー。この時点で、星はまだ作られていないのである。恒星が創られたのは4日目である。
註3水の塊は、我々の身近に有る所謂水ではなく、あらゆる物質を含むスープ(液体)かもしれない。或いはダークマターのことかもしれない。しかしこれは所謂水だと思われる。なぜならば太陽系の外周に大量の水が残っていることから推察されるのである。所謂水だとすれば、あらゆる物質(地球と恒星などを創るのに必要なあらゆる物質)は光の投射によって水の塊―水の深みーの中で創られたと考えることが出来る。この場合の光とはあらゆる種類の放射線である。あらゆる波長の放射線によってあらゆる物質が造られたことになる。これは木の葉の中で澱粉が創られるのに似ている。又水の深みの中の反応は恐らく低温核融合であろう超短波の放射線―例えばガンマ線は素粒子に繋がる。これ等を物質と考えればよい。
註41日は昼と夜から成り立つ。つまり光が存在しているときは昼で、闇がきて朝になると1日は終わりである。エホバの光が引き続いて光っている間は一日は終わりとはならない。そこが我々の概念と異なる所である。我々の1日とは地球が自転するに要する時間であるから、これを天地創造の1日と考えてはいけない。天地創造の第一日目は未だ地球も出来ていないのであるから。天地創造の第一日目はこれが終わるまでの時間であってこれが終わって、エホバの光が光り終わって次に光るまでが1日である。つまり第一日の創造が終わると光が消えて1日がおわるのである。絶対的な時間はなくて逆に仕事単位の時間なのである。天地創造という仕事に区切りがついた時が一単位時間−つまり1日―なのである。
6ついで神は言われた、「水の間に大空が生じ、
水と水の間に区分ができるように」。
7そうして神は大空を造り、大空の下に来る水
と大空の上方に来る水を区分して行かれた。
そしてそのようになった。
8そして神は大空を”天”と呼ぶことにされた。
こうして夕となり朝となった。二日目である。
◎神は、水と水の間に大空を造った。
すなわち水の塊を大空の上と下に区分したの
である。上と下が区分されたので水の塊は
この時点で球形となった。重力の発生である。
神は、この世に上と下があることを知らせる
ために重力を存在させたと考えられる。
又重力―万有引力―によって天と地を安定
させたのである。神は、上に住み、人間は下に住む。
地は神の足台である。
さて上の水塊には宇宙を創る為に必要な物質
が含まれ、下の水塊には地球を創るために必要な
物質が含まれると考えられる。
神は大空を天と呼ぶことにされた。
こうして夕となり朝となった。第二日目である。
註5神が水の深みの表面の上に円を定められたー箴言8:27参照―と言う記事に驚く。これは重力の存在を示している。重力は、天体を安定させる為に必要不可欠な存在である。地球の安定、太陽の安定、宇宙の整然たる運行は、実に重力の存在に拠るのである。
9次で神は言われた、「天の下の水は一つの
場所に集められて乾いた陸地が現れるように」。
するとそのようになった。
10そして神は乾いた陸地を”地”と
呼ぶことにし、水の集まったところを
”海”と呼ばれた。さらに神は[それを]
良いとご覧になった。
◎次で神は言われた、「天の下の水は一つの
場所に集められて乾いた陸地が現れるように」。
するとそのようになった。
ー・・・地球は水の中から生まれた・・・
―水のバブテスマを受けた地球に感動!―
そして神は乾いた陸地を”地”と呼ぶことにし、
水の集まったところを”海”と呼ばれた。
さらに神は[それを]良いとご覧になった。
海水はその後長い間に塩辛くなった。
11次いで神は言われた、「地は草を、
種を結ぶ草木を、種が中にある果実を
その種類にしたがって産する果実の木を、
地の上に生え打さ出させるように」。
するとそのようになった。
12そして地は草を、その種類にしたがって
実を結ぶ草木と果実を産する木、その種類に
したがって種が中にあるものを出すようになった。
それから神は[それを]良いとご覧になった。
13こうして夕となり、朝となった。三日目である。
◎次で神は言われた、「地は草を、種を結ぶ草木を、種が中にある果実をその種類にしたがって産する果実の木を、地の上に生え打さ出させるように」。するとそのようになった。・・・・・・・・・・それから神は[それを]良いとご覧になった。こうして夕となり、朝となった。三日目である。
14次いで神は言われた、「天の大空に
光体が生じて昼と夜とを区分するように。
それらはしるしとなり、季節のため,
また日と年のためのものとなる。
15そしてそれらは天の大空にあって
光体となり、地の上を照らす事になる」。
するとそのようになった。
16そして神は二つの大きな光体を、すなわち
大きいほうの光体は昼を支配させるため、
小さいほうの光体は夜を支配させるために
造って行かれ、また星おも[同じようにされた]。
17こうして神はそれらを天の大空に
置いて地の上を照らさせ、
18昼と夜を支配させ、光と闇とを区分させた。
それから神は[それを]良いとご覧になった。
19こうして夕となり、朝となった。四日目である。
◎次で神は言われた、「天の大空に光体が生じて
昼と夜とを区分するように。それらはしるしとなり、
季節のため,また日と年のためのものとなる。
このようにして現在の太陽系が出来上がった。
太陽と月の出現である。太陽は月の400倍の
大きさなのに400倍の彼方にあって見掛けの大きさ
が同じなのに興味を覚える。
このような偶然があるであろうか。
註7太陽と月ではどちらが大きいか? 太陽のほうが大きいと書いてある。
註8太陽と月を造ってから、星空を造ったと書いてある。つまり太陽系を造ってから銀河系を造ったのである。そして大宇宙はその後で造ったのである。何の為に? 地球をしっかりと万有引力で安定させる為に。それゆえに地球は宇宙の中心である。何故ならば上が大宇宙で、一番低いー最低の下は地球の中心だからである。また地球は一つしかない。人類もこの地球にしか居ない。他に探しても無駄である。
天地創造の神エホバが人間の為に地球を造ったのならば、その意志をくみとり、感謝の念に満たされて、エホバの為に生きるべきである。この大宇宙に、一つしか無い地球を大切にしなければならない。
註9四日目になって太陽が登場し植物に光を与えるようになった。しかしエホバの創造は続き、一日の長さは恐らく三日目までと同じようであったと思われる。一日の長さが地球の一自転になったのは恐らく七日目以降であろう。したがって四日目の、地球の、太陽からの日照時間は驚くほど長く植物大繁茂の原因となったかもしれない。
20次いで神は言われた、「水は生きた魂の
群れを群がり出させ、飛ぶ生き物が地の上を、
天の大空の表を飛ぶように」。
21そうして神は大きな海の巨獣と動き回る
あらゆる生きた魂、すなわち水がその種類に
したがって群がり出させるもの、また翼のある
あらゆる飛ぶ生き物をその種類にしたがって
創造して行かれた。
そして神は[それを]良いとご覧になった。
22そこで神はそれらを祝福して言われた。
「子を産んで多くなり、もろもろの海の水に満ちよ。
そして、飛ぶ生き物は地に多くなれ」。
23こうして夕となり、朝となった。五日目である。
24次いで神は言われた、「地は生きた魂を
その種類にしたがい、家畜と動く生き物と地
の野獣をその種類にしたがって出すように」。
するとそのようになった。
25そして神は、地の野獣をその種類にしたがい、
家畜をその種類にしたがい、地面のあらゆる動く
生き物をその種類にしたがって造って行かれた。
そして神は[それを]良いとご覧になった。
註10野獣と家畜を区別していることに注目。家畜は、人間が飼い馴らしたものではなく神が造ったものであると書いてある。また地面のあらゆる動く生き物をその種類にしたがって造って行かれたと書いてある。動物の種類は神が造ったものである。進化したものではない。種別間の混血は神への創造特許侵害であり、恥ずべき冒涜行為である。
26次いで神は言われた、「わたしたちの像に、
わたしたちと似た様に人を造り、彼らに海の魚
と天の飛ぶ生き物と家畜と全地と地の上を動く
あらゆる動く生き物を服従させよう」。
27そうして神は人をご自分の像に創造してゆき、
神の像にこれを創造された。男性と女性に
これを創造された。
28さらに,神は彼らを祝福し、神は彼らに
言われた、「子を生んで多くなり、地に満ちて、
これを従わせよ。そして、海の魚と天の
飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物
を服従させよ」。
29次いで神は言われた、「さあ、わたしは、
全地の表にあって種を結ぶすべての草木と、
種を結ぶ木の実のあらゆる木をあなた方に与えた。
あなた方のためにそれが食物となるように。
30そして、地のあらゆる野獣と、天の
あらゆる飛ぶ生き物と、地の上を動き、
その内に魂としての命を持つすべてのものに、
あらゆる緑の草木を食物として与えた」。
そしてそのようになった。
31そののち神は自分の造ったすべてのもの
をご覧になったが、見よ、[それは]非常に良かった。
そして夕となり朝となった。六日目である。
天地創造の神に感謝しよう。感謝の気持ちのない者は、神の子とは成れない。
地を受け継ぐことも無い。
2011,8,10 続く
追記・・・中・高校生で聖書の欲しい方に無料進呈します。学校名・学年・氏名・住所〒・連絡方法―Tel NO
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